なぜ、今、「日大映研・新映研の全貌」なのか
坂尻昌平(映画批評家)

 1957年、「日本大学芸術学部映画学科映画研究会」が発足する。以後、「日大映研」と呼ばれることになる自治会組織は、神原寛、康(谷山)浩郎、平野克己の三名に、城之内元晴などが加わる。58年、「映画表現とはどうあるべきか、という倫理と思想の蓄積」(平野克己)『釘と靴下の対話』を発表。「学生映画」の範疇を超える「重要な前衛映画」(ドナルド・リチー)と高い評価を受けるも、批判的な城之内らは、ドキュメンタリーの原点を『Nの記録』で、非物語的なイメージの氾濫を『プープー』で成し遂げる。『釘と靴下の対話』直後、60年安保を目前に大学当局は予算をストップするが、後続組織「新映研」は足立正生らによる『椀』を撮り、益々怪気炎を上げる。63年、 続く『鎖陰』は35ミリで、川島啓志、新津左兵、加藤衛、沖島勲、内村宣明、飯村隆彦、世良君江、足立、そして大須賀武、小笠原隆夫(この二人は後にコアン=セア『フィルモロジー』の訳者となる)などが共同制作の中、渾然一体となって完成、異様な光芒を放つ傑作となる。「日大映研」とは、この運動の総体であり、それは、未だにそれぞれの中で拡張と変質を遂げ続けている新しい何かなのだ。