西山洋一=洋市映画祭に向けて
坂尻昌平(映画評論家)

 誰もが知る「桶屋」の諺を完全映画化するという無謀とも悪い冗談ともつかぬ企画を実現してしまったひとりの映画作家が存在する。この事実は、何か途方もなく痛快であると同時に何がしか陰惨でもある。一見、身も蓋もない「桶屋」の諺の語る因果関係は、あまりに機械的な出来事の連鎖であって、そこには、人間的な意味を付与して安穏とすることを拒む残酷な論理が働いている。この論理を無意味な偶然の連鎖と呼ぶか運命の必然と呼ぶかは、この際どうでもよい。いずれにせよ、人間の論理ではない別の論理がそこにはあり、それをかつて高橋洋は「叙事性」という概念で語っていたのだが、映画『桶屋』(01)は、無意味な出来事が連鎖して「物語=歴史」を構成するこの宇宙の残酷さと出鱈目を痛快に肯定する強度に満ちている。遡れば、初期の『びよ〜ん! ザ・リーズナブル・ダウト』という、フリッツ・ラングの『 Beyond a Reasonable Doubt 』[邦題『条理ある疑いの彼方に』](56)をもじったタイトルを冠した8ミリ映画の「如何にもな」ナレーションと唐突な結末が、ラングの「本当らしさ批判」を正確に継承するものであったことを改めて確認しよう。西山洋市とは、「桶屋」的論理=法則に目覚めてしまった希有な映画作家である。この論理=法則を冷徹に分析し、その呪縛から解き放たれ、むしろそれと積極的に戯れること。そのための歓ばしき智慧の宝庫が、いま開かれようとしている。