渋谷哲也(ドイツ映画研究者)

レナーテ・ザミを知ったのは1995年頃、ドイツ留学中だった。映画史の書物に彼女の名前は出てこない。予備知識なく映画館の自主上映で遭遇した作品には、映画の本質に触れる確かな感触があった。例えばストローブ=ユイレが孤高であるのと同じように、レナーテも独自のスタイルで政治と歴史に対峙し世界を真摯に見据えていた。そして何より映像と音と言葉が厳密な形式を生み出していた。レナーテは子供時代に第二次大戦を体験し、エジプト人と電撃的に結婚してエジプトに移り住み、一人帰国して赤十字の活動に従事し、警察の誤認逮捕で一年間拘禁され、釈放後に国から得た慰謝料で映画を作ることを決心した。それがホルガー・マインスの死に際して作られた処女作である。その後も彼女は独力で映画を作り続けた。素材の失われてしまった『物語を語る』を観たルドルフ・トーメは、もっと映画を撮り続けるよう彼女を励ましたという。そして今も彼女は映画を撮り続けている。