ホルガー・マインスはベルリン映画アカデミーに学んでいたが、アンドレアス・バーダーらの過激派グループに所属し、1972年にバーダーやラスペらと共に逮捕された。マインスは獄中でのハンガーストライキの結果、74年11月9日に死亡した。この映画は、マインスが最後の時期に共同生活し、一緒に映画を作った人物たちとの対話である。ハルトムート・ビトムスキー、ハルーン・ファロッキ、ヘルケ・ザンダー、ギュンター・ペーター・シュトラシェク、そしてマインスが映画作りを手伝った生徒グループの少女が語る。ザミはこの処女作を40歳で撮り上げた。
9名の女性監督によるアンソロジー映画『晴天から突然に』の一篇。1980年、ドイツのゴアレーベンで放射性廃棄物の最終貯蔵施設の建設に対する抗議活動が始まった。前年に起こったアメリカのスリーマイル島での原発事故の記憶も新しく、原子力に対する人々の疑問がわき上がった結果である。環境省は人々にアルミ箔を携帯するよう呼びかけた。不測の原子力事故の際、それを体に巻いて放射線を防ぐというのだ。映画は保護箔で身を守ろうとする男と、若い女性が歌っている姿を1カットで描く。
チェザレ・パヴェーゼは、1908年にトリノとジェノヴァの間に位置する山間部のサント・ステファノ・ベルボで生まれた。彼はトリノで生活し作家活動を行なったが、1950年に42歳で自ら命を絶った。彼の最後の二つの小説、『女ともだち』にはトリノが、『月とかがり火』にはサント・ステファノ・ベルボが深く結びついている。映画は、パヴェーゼの始まりと終焉の場所と二つの小説を辿る旅である。パヴェーゼのかつての友人たちも登場し、この同郷人作家の思い出を語る。
約2000年前のギリシャの地理学者ストラボによるエジプトの記録によれば、当時ローマの属領だったこの地では神殿の司祭たちが訪問者たちに名所を案内していたという。その後の時代にも様々な紀行文が書かれ、映画はそれらの歴史文書を水先案内として現代のエジプトを巡る。8ミリ撮影やパノラマ写真のコラージュ。観光客や自動車などの騒音に溢れた現代の街並みから、過ぎ去った時代の神秘が立ち現れる。そしてエジプトに生きる女性の人生語りの言葉が、この古さと新しさの交差する場所を鮮やかに浮き彫りにする。
この短編はザミの友人の映画作家ウテ・アウラント監修によるアンソロジー映画『小さな花、小さな葉っぱ』の一篇である。アウラントは様々な友人たちに花にまつわる映像を撮ってほしいと頼み、それらをまとめて一つの作品に仕上げた。ザミによる映像は台詞なしで映像と音楽と沈黙が交差する詩的な短編映画で、それだけで完成された小品となっている。題名はハインリヒ・ハイネの詩から取られたもの。
ザミは1967年初めてニューヨークを訪れて以来、この街に魅了された。そして街の中心であるブロードウェイを撮影した。南端のバッテリー・パークから北端のマンハッタンへと通じるブロードウェイ橋までの間の34の地下鉄駅を順々に捉えてゆく。「ボブ・ディラン、ヒッピー、リロイ・ジョーンズ、黒人の暴動、多様さ、カオス、騒音、直線、大きなものと小さなもの、美しいものと醜いものが並んでいる。汚くて、上品で、色鮮やかで、魅力的で、私の望む全てがあった」とザミは街の印象を回顧する。
デジタルカメラは画家リアーネ・ビルンベルクのアトリエを訪れ、彼女が路上や様々な場所で拾ったものから作り上げたユニークなオブジェを捉える。全景を写したストップモーションに被さり、約5分ずつ彼女の父ダーヴィットの過去の体験談が朗読される。その間の小休止にオブジェをクローズアップで捉えた一連の短い映像が挟まる。彼女の父はユダヤ人として故郷ルーマニアを追われ、強制収容所を転々としながらナチ体制下を生き延びた。父は死の間際になって、娘リアーネに、そのことを初めて語ったのだった。