アテネ・フランセ文化センター

講演「ジョン・フォードと『投げること』 完結編」

2005年1月22日

蓮實重彦(映画評論家)

(次の作品における「投げるシーン」の抜粋を連続上映:『リバティ・バランスを射った男』『三人の名付親』『幌馬車』『静かなる男』『月の出の脱走』『荒鷲の翼』『リバティ・バランスを射った男』『長い灰色の線』『鍬と星』『荒鷲の翼』『新人王』『静かなる男』)

今日は「ジョン・フォードと『投げること』 完結編」としてお話しをさせていただくつもりだったのですが、昨夜遅くまで準備したのにもかかわらず完結いたしませんでした。今、ご覧いただいた抜粋を30セットぐらい作らないと完結しないのですが、とてもそこまではできませんでしたので、とりあえず「非完結編」としてお聞きいただきたいと思います。

21世紀に入り、映画の歴史が110年ほど過ぎたところで、何が明らかになってきたかと言うと、人類は「運動」が好きではないということにほかなりません。当然のことながら、モーション・ピクチャー、すなわち「運動する映像」である映画を人類が好きであるはずがない。では、なぜ人類が好きであるはずもない映画をあきずに見に行くかと言うと、映画を、そのモーションではなく、「運動」とは異なる何か動かないものとして語ることが好きだからということになります。実際、人類社会において、運動はいたるところで動かぬものに置き換えられしまう。そうすることが、映画に対する人類の優位だと勘違いされているのです。

たとえば、ジョン・フォードの場合、その作品を語るとき、「反動的」あるいは「保守的」という言葉がしばしば使われ、さまざまなイデオロギーに彼の作家的な活動の総体が組み入れられてしまう。客観性を装った「ハリウッドの古典的な映画作家」という呼び方さえ、「運動」を好まない人類の嗜好にふさわしいものなのです。そこで私は、もっとも単純な運動の一つ、物を手に取って投げるという身ぶりをジョン・フォードがどのように描いているのか逐一見てみたいと思ったわけです。

なぜそんなことを思いついたかと言いますと、高校時代、たぶん16歳ぐらいのときに『リオ・グランデの砦』を見ておりまして、物を投げるシーンにひどく感動したことがあるからです。それも、主役ではないベン・ジョンソンが空き缶を空に向かって投げるロング・ショットの「運動」性に感動し、フォードは人に物を投げさせることの達人だと理解し、以後、今日にいたるまで、また投げた、また投げたとつぶやきながら彼の作品を見てきたわけです。では、なぜジョン・フォードにおいて、人は物を投げるんだろうか。その理由の一つとして、おそらく彼は、手渡すという動作が嫌いだということがあります。ふたりの人間が比較的近い距離で物を手渡し合うより、やや離れたところからそれを投げる、その「運動」こそが映画だということをジョン・フォードはかなり早い時期に、つまりサイレント時代に発見していたのです。

青春期にはその「運動」に惹かれていただけだった私は、老年に達したある時期から、「ジョン・フォードと『投げること』」を何らかのテクストとして完結させたいと思いはじめたのですが、不思議なことにそれは完結しない。この年齢になっても、投げる動作が演じられている瞬間をとても発見し尽くせないからです。ああ、こんなところにもあるといった具合に、彼の作品を見直すたびに忘れていた細部に遭遇し、尽きるところがありません。したがって、今日ここで「非完結編」を見ていただくしかないことになるのです。

では、なぜジョン・フォードなのか。これは自分でも充分に意識化しえず、なかなかこれだと正確には申し上げられないのですが、少なくとも二つか三つの理由は考えられます。一つは、私がローティーンからハイティーンにかけて毎年その作品を見ることができた数少ない映画作家がフォードだったからというものです。同じ時期でもヒッチコックの方が作品の数が少なく、ジョン・フォードはときには一年に二本も見ることができたのです。ハワード・ホークスはもっと作品数が少なくなる。なぜここでヒッチコック、ハワード・ホークス、ジョン・フォードという名前を挙げたかと言いますと、ごく単純に、映画は、彼らによって代表されるアメリカ合衆国にしか存在しないというのが私の考えだからです。もちろん、小津や溝口や成瀬がそうであるように、その新作が気になる日本映画も存在しますし、ルノワール、ベッケル等々、見のがしがたいフランス映画も存在していたわけですが、モーションという点に関しては何といってもアメリカ映画が主流であり、ジャン=リュック・ゴダールだけがかろうじてジョン・フォードに迫り得たほかは、他の国の映画はなかなかモーション・ピクチャーにはならない。

そこで、今日は人間にとってはもっとも単純な「運動」、つまり物を手で握り、そしてそれを空中に放り出すというアクションをジョン・フォードの映画で人々がどのように演じていたか見ていただきたいと思います。そのおおよその線は、今月発売されました「文學界」、なぜ文芸誌なのかということも問題かと思いますが、それに掲載されています「ジョン・フォードと『投げること』」に書いたわけですが、そこで触れたシーンと先ほどご覧いただいた2分半ほどの抜粋の映像とはほとんど重複しておりません。私はかなり図々しい人間と思われていますが、それでもやはり慎みというものがあり、文章に書く場合、列挙だけはやめようと思うわけです。そこまで列挙して相手に自分を分からせようとすることははしたないことだ、とつい思ってしまうのです。文章上で列挙をはじめますと、いささかの恥じらいが生まれ、それで列挙はつい避けてきたということがあります。しかし、今日はある程度まで列挙させていただきたいと思っておりますので、先ほどご覧いただいたような形で抜粋を見ていただき、ほとんどの時間はフォードの作品からの抜粋を見ていただくことになろうと思っています。人類は「運動」が嫌いだ、したがって、映画について語ろうとすると「運動」以外のことを語りたがる。とするなら、映画にかぎらず、批評は何をすべきかと言うと、ごく単純に見る、あるいは読むほかはありません。そこで、見ることのはじまりとして、まずこの映像を見ていただきたいと思います。

(『ドクター・ブル』の抜粋の上映)

今、見ていただいたのは『ドクター・ブル』の冒頭の部分ですが、ごく単純な要素からなっています。画面の奥から列車が近づいてきて、それが駅のプラットホームに到着するというだけのことなんですが、その列車の到着にはある仕掛けが施されています。ご覧いただいたように、郵便バッグがホームにぽんと放り出されるのです。ところが、不思議なことに、この映画を語ろうとするほとんどの人は、この郵便バッグの「運動」を見ていない。なぜかと言うと、それが喋らないからです。物であるからです。ここで投げられた郵便バッグそれ自体に意味があるわけではありませんが、しかし、投げ出されたバッグのイメージがここに挿入されているのには、当然のことながら、深い意味があります。それは、はじまりの瞬間をフィルムに刻みつけているのです。ジョン・フォードには列車の到着ではじまる映画がしばしばあると指摘されておりますが、その一つの例として『リバティ・バランスを射った男』の冒頭を確認していただきたいと思います。

(『リバティ・バランスを射った男』の抜粋の上映)

ご覧いただきましたように、当然のことですが、ここでは列車から人が降りてきます。つまり、本来であれば、列車の到着は人間を中心として描かれるはずなのですが、先ほど見ていただきました『ドクター・ブル』においては、車掌は両方の映画に出てきますけれども、乗客は誰も降りてこない。とすると、ジョン・フォードの映画はしばしば列車の到着によってはじまると言っているだけではいけないことになります。重要なのは、列車の到着で映画がはじまるときに、ジョン・フォードがそのつどどのように特殊な状況を作りだしているかを目で確かめることであり、1933年の『ドクター・ブル』においては、列車から人物が降りてこないという状況をまず作り上げた。その代わりに、郵便バッグというオブジェを登場させ、それを取りに来た郵便局員の女性と車掌との短い会話によって、ニュー・ウィンストンという街がおよそ動きのない土地であるということをはっきりさせているわけです。そこで、この映画がどのように終わっているかを見ていただきたいと思います。

(『ドクター・ブル』の抜粋の上映)

画面の構成と、キャメラのアングルはほぼ同じだと思います。住人たちとの諍いでこの土地が幾分嫌になってしまった医師のドクター・ブルが、人々がよからぬ思いで眺めていた女性と結婚し、一緒に新婚旅行に出かける。新聞には彼自身による医学的発見の記事は出ているけれども、結婚のことは書いていないなあというようなことを言いながら、ウィル・ロジャースが土地から去っていくわけです。まさに投げることではじまり、投げることで終わるわけですが、投げることが描かれている最良の例として、次の映像を見ていただきたいと思います。『周遊する蒸気船』です。これは登場人物の全員が投げることに貢献しています。

(『周遊する蒸気船』の抜粋の上映)

なぜ船上の男女が競い合ってさまざまな物をボイラーに放り込み、しかも、酒まで投げ入れてしまったかと言うと、そのなかに殺人事件の無罪を証明しうるかもしれない証人がまぎれこんでいるからです。その証人を、ある時間までに裁判所まで連れていかねばなりません。ところが、途中で燃料が無くなってしまい、たまたま飲んでいたポカホンタスという健康飲料のような物が実はラム酒だったということが分かり、全員がラム酒を投げ込みはじめるわけです。燃えている暖炉のなかに何かを投げ込むということがジョン・フォードは大変好きで、お見せしたい作品があと10本ぐらいあったのですが、昨晩考えてやめました。列挙はやめるという原則にしたがってやめましたが、今のシーンはまさに燃焼中のボイラーに物を投げ込むことのもっとも大がかりな例で、大がかりと言いますか、進んでゆく船の船体を燃料にしながら進むというこんな不条理な作品は映画史に存在しなかったのではないかーーその後、マルクス兄弟が蒸気機関車の釜に列車の車体を壊してぶち込むというかたちで再現することになるのですがーーと思われるようなシーンになっているわけです。今のシーンの場合、乗組員数人が一緒に仕事をしていましたけれど、それに似たことはさまざまな映画で行われており、ジョン・フォードの映画における投げる行為の集団性を示してもいますので、まず次の例を見ていただきましょう。

(『わが谷は緑なりき』の抜粋の上映)

これは、『わが谷は緑なりき』のなかの感動的な一シーンと言えるでしょうか。大きく拡げられた母親のエプロンに向けてコインを投げる大写しがあるわけです。ジョン・フォードはあの種のコインの大写しを何度もやっておりますが、その全てをお見せするわけにはいきません。今のシーンではコインを投げ入れることで家族の連帯といったものが高まるわけですが、では、ジョン・フォードにおける家族の連帯とはあのような家族的な儀式によってのみ成り立つものでしょうか。投げることは行われていても、雰囲気がまったく違う例を見ていただきたいと思います。

(『タバコ・ロード』の抜粋の上映)

今、ご覧いただいたように、このシークエンスは投げることからはじまり、投げることで終わっています。これは不況時代の農村を舞台にしていますが、最初に、息子が家の壁にボールをぶつけていてガッタン、ガッタンという嫌な音がしている。そこにウォード・ボンドが来て、ジーン・ティアニーから誘惑される。つまり、妹の亭主が来たのにもかかわらず、お里の家族が全員でフォード的というほかはない連係プレーで彼を倒し、持っているかぶを奪ってしまうわけです。最初に壁にボールをぶつけていた子どもが最後に彼に向かって石を投げると、それを合図に、家族全員が彼に石を投げて倒してしまうのです。ということで、ジョン・フォードがいかに投げることに演出を賭けていたかというのがよく分かります。家族は当然、複数性の主題につながり、軍隊もまたそのような複数の主題につながりますが、軍隊においても事情は同じだということを次に見ていただきたいと思います。

(『黄色いリボン』の抜粋の上映)

バーテンをやっていたのがフランシス・フォード、ジョン・フォードの兄貴で、サイレント期の西部劇のスターです。商売道具の酒瓶まで投げつけて壊してしまう奇妙なおじさんで、これから何度か登場してもらおうと思っています。今のは『黄色いリボン』ですが、退役する大尉のジョン・ウェインが、放っておくと何をしでかすか分からない退役間近な軍曹を、ちょっと悪いことをさせて営倉に入れておけば退役まで安全だろうということで酒保に乗り込ませる。そこで、無声映画時代の大スターであるヴィクター・マクラグレンがやりたい放題にやるわけですが、隊長夫人に促されてやっとおとなしくなる。軍隊の場合には、単に投げるだけではなくて、ある投げ方、ある心づもりを共有することがありますので、次のを見ていただきたいと思います。

(『荒鷲の翼』の抜粋の上映)

これから喧嘩するぞというときには全員が帽子を投げる。誰が投げはじめるということではなく、全員が一斉に帽子を投げる。先ほどお見せした抜粋のなかに、ジョン・ウェインが顔にクリスマスケーキのような物を投げつけられるシーンがありましたが、その原因を作った乱闘場面になります。帽子が一斉に投げられて、それをシグ・ルーマンという役者が驚いた顔をして見ている。今のは『荒鷲の翼』ですが、このようなシーンはジョン・フォードにはたくさんあるわけです。しかし、このような集団的な行為とは違ったものが真の意味でのジョン・フォードの投げることなのであり、ジョン・フォードの新作を毎年見ていた時期に、まだ若かった私が本当に心の底から揺り動かされたシーンを二つほど見ていただきたい。まず『アパッチ砦』を見ていただきます。

(『アパッチ砦』の抜粋の上映)

ジョン・ウェインとペドロ・アルメンダリスがインディアンの酋長のところにもう戦争をしないようにと和平の下交渉に行くのですが、司令官のヘンリー・フォンダが士官学校出身の頭の固い男ですので、あんな司令官に付き合わされてはたまったものではないといった感じでふたりが進んでいくわけです。あの蛇行した大きな谷にウイスキーの瓶を投げるところは、私がジョン・フォードは凄いと思った最初のイメージの一つです。実は、日本では製作年度の早い『アパッチ砦』の方が後に上映されていまして、これからご覧いただく『リオ・グランデの砦』の公開の方が先になってしまいました。『アパッチ砦』は最後にアメリカ軍が全滅しますので、第二次世界大戦後のアメリカ軍占領時代には公開されなかったわけですね。『リオ・グランデの砦』にも素晴らしい投げるシーンがあります。

(『リオ・グランデの砦』の抜粋の上映)

馬の曲乗りの名人はベン・ジョンソン、彼に助けられる友だちがクロード・ジャーマン・ジュニア。彼はサム・ウッド監督の『子鹿物語』という大当たりをとった映画で子役としてデビューし、その後成長して久方ぶりにこの映画に出演したわけです。岩山の上に騎馬に乗った兵士が不意に現れて、物を投げます。空になった缶詰を投げるんですが、その投げ方が素晴らしい。この一瞬の「運動」感がそれに続く追跡場面を導き入れているのであり、私が感動したのはその事実にほかならず、ネイティヴ・アメリカン、インディアンたちを撃ち殺すところが素晴らしいと思ったのではありません。ジョン・フォードのネイティヴ・アメリカンに対する考え方、気持ちには複雑なものがありますが、そのことはここでの話題ではありません。見落としていただきたくないのは、缶詰を投げてから岩の斜面を一気に駆け下りるあの運動感の凄さです。これが映画だと私が意識した最初の画面の一つです。今のシーンの場合には、何を投げたかということにはほとんど意識が向かない。投げることそのものが重要なのであり、それを合図とするかのように、視界がそれまでとはまったく異なったように澄みわたるのです。次に見ていただくのは、投げるのは固体だけでない、液体も投げるというところです。『西部開拓史』の「南北戦争篇」を見ていただきたいと思います。

(『西部開拓史』の抜粋の上映)

南軍に志願していたジョージ・ペパードが、故郷に戻り、軍務についている間に両親が亡くなっていたことを、庭先に立っている墓を見て理解する。彼が家に近づこうとすると、兄の帰還を知らずにいる一番下の弟が、縁先に何気なく水をうつ。一瞬画面をおおうその水の幕が、戦いに疲れて帰ってきた兄を無意識のうちに歓迎すると言いましょうか、兄の帰郷をそれとは知らずに祝福するのがあの水であるわけで、見落とされがちですが、素晴らしいシーンだと思います。このように、集団的にせよ個人的にせよ、ジョン・フォードにおいては投げることが、あるいは何かを手放すことと言ってもいいかもしれませんが、何かが手から離れた瞬間に新しい出来事が起こり、仲間が救われたり、人と人とが結び合わされたり、再会の喜びが祝福されたりするのです。

これまでお話ししたことをイントロダクションと考えていただいて、これからいろいろな例を見ていくことにいたします。まず、人々がもっとも簡単に投げ出す物は、特に男性の場合、吸いかけのタバコです。タバコをポンと投げるという何気ない動作が、ジョン・フォードにあっては物語を活気づける一つのアクセントになっており、無声映画時代からしばしば行われていたことです。そこで、基本的なタバコの捨て方をまず見ていただきたいのですが、ジョン・フォードで不思議なのは、吸いかけの煙草を肩越しに背後に捨てたりする。今後も何度か見ていただきますが、前にポンとタバコを捨てるのではなくて、肩越しに後方に投げ捨てる。これを見ていただくために『男の敵』をご覧ください。

(『男の敵』の抜粋の上映)

タバコのみならず人間をも軽々と投げてしまうのがジョン・フォードの凶暴な人物たちのいつものやり方ですが、特にこれはヴィクター・マクラグレンという巨漢ですから、あのような人は軽々と投げてしまうわけです。今、ご覧いただきましたこの投げ方、これがジョン・フォード独特のタバコの捨て方ということになります。ダブリンの貧しい男がつい友人を裏切って密告してしまうというのがこの『男の敵』の物語ですから、今のシーンは映画のテーマとまったく関係が無いのですが、あの派手な肩越しの捨て方をぜひ見ていただきたいと思いました。タバコを投げ捨てるという仕草は、ジョン・フォードにおいては、苛立ちだったり怒りだったりするわけですが、次のケースをご覧いただきましょう。南北戦争の秘話ですが、グラント将軍とシャーマン将軍が葉巻を吸っている場面です。シャーマン将軍のジョン・ウェインが葉巻をどのように捨てるかを見ていただきたいと思います。

(『西部開拓史』の抜粋の上映)

葉巻を捨てることで、グラント将軍に対する世間の風当たりが不当であるということをシャーマン将軍役のジョン・ウェインは何度も言おうとしていたのです。このようなシーンをさらに幾つか見ていただきたいと思います。

(『鄙より都会へ』の抜粋の上映)

名高いハリー・ケリー、初期のジョン・フォードがジャック・フォード名義で撮っていた頃の西部劇の大スターです。ジュニアの方はしばしばジョン・フォードの後期の作品に出ていましたが、父親のハリー・ケリーは、タバコも捨てれば、親しい女性から突きつけられた別れの手紙も怒って捨ててしまう。その後、彼は何とそのまま列車に飛び乗ってニューヨークまで行ってしまいます。何でカウボーイがニューヨークに行くのか。フォードにあっては、いったん男が何かを投げ捨てれば、それはすべきことはするぞという決意の表明であるわけです。ところで、私のフランス語ヴァージョンの「ジョン・フォード論」が載っております「cinéma」という雑誌は、大変お得になっております。私の文章が載っているからではなく、今上映いたしました『鄙から都会へ』のDVDが付いていて、値段もそれほどお高くない。前号には溝口の『東京行進曲』のDVDが付いていたという素晴らしい雑誌ですから、ぜひどこかでご覧いただきたい。図書館ですとDVDがどうなるか分かりませんから、できれば買うべきだというのが私の強い要請ですが、それをどうお取りになるかは各自の勝手ということになります。そういう雑誌がフランスで出ていて、日本映画さえDVDになっているということです。

ここでは、吸いかけのタバコを捨てるところをお見せしたかったわけですが、『鄙から都会へ』は1917年の映画ですから、それから延々50数年にわたってフォードの人物たちは同じ動作を演じているということなのです。演出家フォードにいったいどんな確信があったのか、しかもその確信が50数年も続いたのか、私はいつもあれこれ考えこんでしまいますが、ともかく、この投げるという「運動」はどこかで突然はじまったことではなく、彼が映画を撮りはじめたときからやっていたことなのです。

(『シャイアン』の抜粋の上映)

これは『シャイアン』の最後の方に見られるシーンです。隊長のリチャード・ウィドマークがインディアンを救うためにワシントンを訪れ、前大統領のリンカーンの親友であるエドワード・G・ロビンソンに頼み込み、無駄な戦闘をやめさせようとする。エドワード・G・ロビンソンは自分の地位を賭けてインディアンと協定を結ぶことを決めるのですが、そのときにあの長い葉巻を捨てて、リンカーンの肖像画の額の前に行くことになります。残念ながら、エドワード・G・ロビンソンという役者はジョン・フォード的な運動が苦手で、今の捨て方も下手と言えば下手です。ジョン・ウェインだったらもっとうまくやるところを、おそらくジョン・フォードの意図も分からぬままに捨てたので、葉巻が暖炉に入ったかどうかもはっきりしない。しかし、エドワード・G・ロビンソンのような大スターでもジョン・フォードの指示にしたがって、葉巻を捨てることをやっているということを見ていただきたかったわけです。これからしばらくの間、そのような投げることを立て続けにお目にかけます。まず『静かなる男』を見ていただきます。

(『静かなる男』の抜粋の上映)

実はジョン・フォードにおける投げることの主題には、投げずにおくことも含まれます。今の場合は、マッチを捨てようとして捨てきれないジョン・ウェインの前に美しい女性が夢のように出現する。赤毛のモーリン・オハラがジョン・ウエインを意識しながら、羊の群れを追って遠ざかる。素晴らしい場面だと思いますが、はじめて会ったのにもかかわらずもうふたりは愛し合っているかのように音楽も高まれば、ふたりの間にひろがる距離感もまた素晴らしい。ある意味では、馬鹿馬鹿しいと言ってもよい状況ですね、久しぶりに故郷に帰ったら、男の目の前にいきなり羊飼いの女が出現したというのですが、その光景を目にして男が吸いかけの煙草を投げることを自粛させることで抒情的に引き延ばしてしまうジョン・フォードは、やはり普通の人間ではないという気がいたします。ここでは、投げないこと、投げ捨てないことが重要になってまいりますが、つまり、投げそうになったり、投げなかったりするとそこに必ず異性が登場するというのがジョン・フォードの作品の一つの在り方です。

(『わが谷は緑なりき』の抜粋の上映)

牧師であるウォルター・ピジョンが自分の部屋のランプに火を灯す。そこにモーリン・オハラが浮かび上がってくる。まさにあれがモーション、「運動」であるわけです。ほのかな光のなかに姿を見せた彼女は思いつめたような表情で立ち上がる。これまた新派の悲劇みたいな話で、通俗的といえばまさしく通俗きわまりない場面ではあるわけですが、その視界をこのように不意に透明にしてしまうジョン・フォードとは何だろうかと私は絶えず考えております。ランプに火を灯して、やはり肩越しにマッチを捨てようとして思いとどまる。それがクローズアップで映し出されるわけですから、フォードがいかに肩越しに物を捨てることにこだわっていたかということがよく分かります。まさに『男の敵』のヴィクター・マクラグレンが捨てたのと同じようなやり方で、ウォルター・ピジョンがマッチを背後に捨てようとする。このクローズアップのショットはちょっとやり過ぎではなかろうかという気もしないわけではありませんが、その主題的な一貫性に私は打たれます。これと同じような形で、暗がりにいきなり火が灯って男女が出会う場面がありますので、こちらもご覧いただきたいと思います。

(『リオ・グランデの砦』の抜粋の上映)

触れてはいけないはずの別居中の妻に、長い討伐から帰ってきたジョン・ウェインがつい触れてしまったので、「ごめん」と言って分かれるわけですが、何だフォードさん、あなたは『わが谷は緑なりき』と同じことをやっているじゃん、と言われるかもしれません。両作とも暗がりにいるのはモーリン・オハラであるし、その表情が灯されたランプの火で浮かび上がる。また、音楽もそこで高まる。もうこれだけのことを知っていればラブストーリーは撮れてしまうはずなのに、なぜかジョン・フォードのこのようなところは誰も真似しませんね。これはモノクローム映画に独特な表現であって、カラーではなかなかやりにくいということがあるのかもしれませんが、実はジョン・フォードはカラーでもこれをやっております。

(『静かなる男』の抜粋の上映)

まだ婚約さえしていないのに接吻してしまったので彼女は怒るわけです。ジョン・ウェインが住むことになる家で、彼女が火を灯す。そこにジョン・ウェインが何も知らずに帰ってきて、どうも家のなかに妙な気配がするというので、物を投げてしまったわけです。それに彼女が驚いて、飛び出してきたところを抱擁する。しかも、風が吹いている。こんなところも最近のアメリカの監督たちは真似すればいいと思うんですが、あのような風のなかでの抱擁というのもなかなかやらせません。照明が明るくなってそこに浮かび上がるのは女性だけではありません。男の姿を浮かび上がらせる瞬間を、ちょっと違った形でやっている作品があるので、それをご覧ください。

(『リバティ・バランスを射った男』の抜粋の上映)

これはジョン・ウェインがヴェラ・マイルズ、すなわち最愛の女を失ったと思って、通りの暗い影のなかでタバコに火をつけるところです。闇の中の炎は男性と女性を結びつけると同時に、また引き離しもするという例であります。火を放り投げることによって、人と人とが出会うこともあれば、男性と女性とが別れなければいけないケースもある。今の場面では、ジョン・ウェインが夜の影のなかでタバコを捨てるわけです。そのことによって、女性を失うということを見ていただきました。それでは、物を投げることからちょっと外れるかもしれませんが、次をご覧ください。

(『長い灰色の線』の抜粋の上映)

ここで重要なのは、ジョン・フォードの映画ではあらゆる人間がタバコを捨てていいわけではないということなのです。悪い奴が捨てると、今のように拾われて怒られるということが起こります。あの彼は42歳の知事、ウェストポイントというアメリカの陸軍士官学校を見に来たお偉いさんですが、彼がタバコを捨てると、タイロン・パワーがそんなところにタバコを捨てられたら困ると言って、そのタバコを拾って手で持つわけです。理由は簡単で、お前さんはジョン・フォードの映画の顔をしていないというものです。ジョン・フォード的でない奴がタバコを捨てるとは何事だと言って、そのタバコを拾いさえするわけです。何とも几帳面な話だと思いますが、ジョン・フォードの映画なら誰でもタバコを捨てていいかと言うととんでもなく、捨てられる人は決まっている。つまらない男がタバコを捨てたらそれは罰せられなければならないというジョン・フォードの物を投げることに対するある種のモラルみたいなものがあって、ここは見捨てるわけにはいかないところです。あの知事が大統領のブッシュよりもひどい顔をしているということがあるかもしれませんが、やたらな男がタバコを捨ててはいけない。ジョン・フォードの映画においてはあらゆる人が好き勝手にタバコを吸い、マッチを捨てたり、タバコの吸い殻を捨てたりすると思っておられるかもしれませんが、このように、ジョン・フォードは、お前さんたち、世の中はそう甘くはないぞ、捨ててはいけない人間がいるのだ、それは顔によるとはっきり言っているわけです。その意味で、これはぜひ見ておいていただきたかった場面です。

(『荒鷲の翼』の抜粋上映)

この『荒鷲の翼』という映画では、兵隊たちが物を投げてばっかりいる。海軍が投げれば、陸軍も投げるというわけで、守るも攻めるもではなくて、投げるも攻めるもという感じになっています。次に見ていただくのは乱闘シーンですけれども、単に殴っている人と然るべき物で殴りかかっている人がいる。ある男はウィスキーを投げてもいい、ある男は椅子を投げてもいいという節度があるわけです。選ばれたふたりがウィスキーと椅子を投げ合います。ご覧ください。

(『ドノバン珊瑚礁』の抜粋の上映)

やはり精選された物を投げているわけです。手当たり次第に投げているのではなく、ビンを投げていい人、悪い人がいる。後ほど、ビンを投げてもいい女性というのをお見せいたしますから、ご期待ください。この『ドノバン珊瑚礁』という映画は、私はジョン・フォードの代表作の一つではないかと思っておりますが、今のようにやっていることがあまりに馬鹿馬鹿しいので、なかなか本気で見てもらえない残念な映画であります。

(『プリースト判事』の抜粋の上映)

陪審員のひとりが先ほどちょっと出てきましたジョン・フォードの兄のフランシス・フォードです。ああいう役をやらせたら誰よりもうまい人ですが、検事の話の最中に噛みタバコをいろんなところに飛ばします。物を投げることと紙タバコを飛ばすことは同じだと考えていいのですが、このシーンでは音が人々の笑いを誘うわけです。フランシス・フォードは南軍のベテランなんですけど、だから飛ばしていいんだという顔をして、あの検事の論告の間に次々と唾を飛ばす。痰壷の場所を変えてもそこまで飛んじゃうわけです。ジョン・フォードが、兄貴、適当にやってくれと言うと、今のような顔でやるわけですが、唾を吐くというのはこれもみんなに許されているのではなく、然るべき人たちだけが然るべき場所で唾を吐く。この唾を吐くシーンもいろいろとお見せしたいのですが、残念ながらそうはいきません。次に、投げるのが当たり前だと思われている物が世の中にはあるわけですが、それを投げることによってフォード的なエネルギーが出てくる物がありますので、まず『河上の別荘』をご覧いただきたいと思います。曲芸師が出てきますが、これがナイフ使いなんです。そこのところを見ていただきたいと思います。これは刑務所のなかで行われていることです。

(『河上の別荘』の抜粋の上映)

ナイフが外れるや、「あいつ、失敗した」と言う変なおじさんがいましたね。刑務所のなかの演芸としてああいうことが行われているわけです。曲芸師のナイフと同じように、兵隊が手榴弾を投げることも当たり前のことと思われがちですが、あらゆる兵隊は手榴弾を投げなくてはいけないと思えてくるようなシーンがありますので、ジェームス・キャグニーがひたすら投げまくっているところをご覧いただきましょう。

(『栄光何するものぞ』の抜粋の上映)

ジョン・フォードにとっての第一次世界大戦とは、ひたすら物を投げることだというかのように事態は推移しています。ハワード・ホークスの『ヨーク軍曹』と異なり、ここでの米軍は銃を撃たず、なぜか手榴弾だけを投げ、戦争が投げることによって表象されてしまうのです。第一次世界大戦には、塹壕戦や双発の飛行機の空中戦とかさまざまな戦闘形態があるのですが、ここでのフォードは、もっぱら投げることだけで戦闘場面を作ってしまうのです。今のシーンのアメリカ兵は誰一人銃を撃たずに戦っているわけですが、銃を捨ててしまうシーンさえジョン・フォードにはたくさんありますので、まず『怒りの葡萄』を見ていただきたい。

(『怒りの葡萄』の抜粋の上映)

ここでとにかく身を隠せと言っているのがジョン・キャラダインで、デヴィッド・キャラダインのお父さんです。逃げていったのはヘンリー・フォンダですが、まさに銃を投げ捨ててしまう。あの程度の捨て方で大丈夫かという気はしないわけではありませんが、次の抜粋を見ていただきますと、やっぱりここでも銃は投げ捨てられる必然性があったということが分かります。『幌馬車』を見ていただきましょう。

(『幌馬車』の抜粋の上映)

武器を投げ捨てるという運動をお見せしようとすると、あと幾つもの例があります。それぞれの作品の舞台設定によってその意味は異なるのですが、今の場面にはフォードの平和主義の一端が顔を覗かせているという人もいます。しかし、ことはより単純で、使いきった物は捨てなくてはいけない、遠くに投げなきゃいけないのがフォードの原理の一つであるわけです。ベン・ジョンソンの演じるカウボーイは人を殺したことがなく、俺は蛇しか撃ったことはないと言っていましたが、悪漢どもを退治した後は、拳銃など用済みだと言うかのように投げ捨ててしまう。もう一度敵が襲ってきたらどうするかとか、そのようなことはとりあえず考えなくてよいのがジョン・フォードの世界なのです。それでは続きまして『新人王』というテレビ映画の例を見ていただきましょう。

(『新人王』の抜粋の上映)

お気づきと思いますが、ヴェラ・マイルズが演じる女性もピストルを投げ捨ててしまいます。彼女がスポーツ記者のジョン・ウェインを脅迫し、彼が書こうとしている記事を書かせまいとする場面ですが、同じくフォードのテレビ映画から別の場面を見てみましょう。

(『フラッシング・スパイクス』の抜粋の上映)

先ほどの『新人王』でルーキー役を演じていたのはパトリック・ウェイン、ジョン・ウェインの子どもですが、その数年後の今見ていただいたテレビ映画にも彼は出演しています。元大リーガーで八百長に関わったと言われているジェームズ・スチュワートがアマチュア野球をやっているわけですが、さあやるぞと自分を奮い立たせるときにはいつも砂をつかみ、『男の敵』のヴィクター・マクラグレンのように、肩越しに捨てる。まあ、作品や役者の違いによってさまざまな投げ方を思いつくものだと驚きます。今の二本はテレビ映画で、あまりご覧になる機会はないかと思いますが、その両方に投げる身ぶりが演じられている。しかし、野球が題材だからボールを投げるのではなく、いずれにあっても野球の動作とはまったく違う投げ方をするわけです。続いて『人類の戦士』と『モホークの太鼓』の例を見ていただきましょう。『人類の戦士』の方は、医者が恩師に裏切られたと思い、しかも妻を病気で失い、もう嫌だ嫌だ、人生を変えるぞと言って物を投げるシーンです。

(『人類の戦士』の抜粋の上映)

続いて『モホークの太鼓』の例も見ていただきたいと思います。インディアンに追われたヘンリー・フォンダがひたすら逃げる。どうしてインディアンよりヘンリー・フォンダの方が足が早いのか、ハイティーンのときからずっと疑問に思っていたのですが。インディアンがどうしてもヘンリー・フォンダに追いつかない。最後にインディアンがもうやめたと言って物を投げるところです。

(『モホークの太鼓』の抜粋の上映)

なぜインディアンは白人に追いつかないのか、その理由はいろいろと考えられまして、これはフォードの最初のカラー映画の一つでもあるわけで、山岳地帯の森林の中を走っていくその背景の木々の色彩を見せるためにフォードはどうしても追いつかない駆けっこをさせたんだと言っている人がいましたが、果たしてそうか。追いつくことができないインディアンが苛立ちからトマホークを投げ捨てるのか、インディアンはそういうことをするのかと高校時代に西洋史の先生に聞いたところ、分からんという答えが返ってきた記憶があります。次は『荒野の決闘』の例を見ていただきたいと思います。

(『荒野の決闘』の抜粋の上映)

ここでドク・ホリディを演じているのはヴィクター・マチュアで、フォード作品への出演はきわめてめずらしいことですが、彼は銀行の輸送のボディガードとして馭者の脇に座り、馬のスピードを上げさせようと石を投げていたのです。後ほども見ていただきますが、馬車の馭者台から石を馬に投げている。フォードの西部劇ほど、御者や馬車に乗っている人が馬に石を投げる映画はありません。

ところで、帽子を投げることが一種の落胆を表すケースです。『黄色いリボン』で、討伐に失敗して帰ってきたジョン・ウェインの帽子の投げ方を見てください。

(『黄色いリボン』の抜粋の上映)

フォードにあっては、まるで物を普通に置いてはいけないというかのように事態は推移しています。ジョン・ウェインはほとんどワインドアップするようにして自分の帽子を置くわけです。もちろん、それはフォードの演出によるものですが、自分のミッションが失敗に終わってしまったという無念さが、あの帽子の投げ方で表されています。次は思いもよらぬ物が投げられる例を見てみましょう。

(『リオ・グランデの砦』の抜粋の上映)

北軍のジョン・ウェインとその部下だったヴィクター・マクラグレン軍曹は、南北戦争当時、ジョン・ウェインの奥さんである南部出身のモーリン・オハラの実家である邸宅に作戦上火を放たねばならなかったのです。それが、二人が別居した原因でもあるのですが、それを忘れられずにいる彼女が、「放火魔」がこんなところにいるなんてなぜでしょうと嫌みを言うと、「放火魔」という言葉の意味が分からないヴィクター・マクラグレンは、洗濯の桶をいきなり川まで投げてしまいます。ですから、フォードにあっては、幸福なときだけではなく、不運なときも物を投げるわけです。相手の存在をきっぱりと無視する瞬間にも物が投げられます。

(『駅馬車』の抜粋の上映)

銀行家のバートン・チャーチルがインディアンから早く逃げよう、逃げようと言っているのに、夫である将校のもとを訊ねるルイーズ・プラットが陣痛に見舞われ、宿場に足止めされ、駅馬車は出発できない。お産に立ち会った酔いどれ医師のトーマス・ミッチェルに向かってさあ乾杯しようと言うバートン・チャーチルに対して、トーマス・ミッチェルは乾杯なんかしてやるもんかと、ウィスキーを火のなかにくべる。その白い炎をカラー映画でやると次のように派手になりますので、それも見ていただきたいと思います。

(『捜索者』の抜粋の上映)

ジョン・ウェインは早く捜索を続けようと言うのですが、食卓のジェフリー・ハンターはかたわらに美しいメキシコ女性がいたりしてなかなか動こうとしない。そこで、ジョン・ウェインが飲んでいたテキーラを火のなかにくべると、真っ赤な炎が燃え立つのです。このシーンをはじめて見たとき大学生だった私は、あ、『駅馬車』でやったことをまたやっている、フォードも好きだなあと思いました。それが今から45年ぐらい前ですから、いまだにそれにこだわっている私も好きだなあというほかないのかも知れません。撮る方も、見る方もこんなことばっかりやっているんだなあという気がいたします。お互い様というわけです。ところで、モノクロームでやったことをカラー映画で再現するということをジョン・フォードはよくやっています。次に、モノクロームとカラー映画の二つの投げることを見ていただきたいと思います。まずは『荒野の決闘』です。

(『荒野の決闘』の抜粋の上映)

照れ屋で、あれほど急かされてもなかなか動こうとしなかったヘンリー・フォンダが、キャッシー・ダウンズと踊ろうと決意する瞬間に帽子を投げるシーンです。ほぼそれと同じような形で男が帽子を投げるケースがありますので、そこを次に見ていただきたいと思います。カラー映画で再現されております。

(『静かなる男』の抜粋の上映)

丘の上でモーリン・オハラがジョン・ウェインに誘いかけるように微笑むと、ジョン・ウェインが自分の被っていた帽子を取り、そのなかにえいやっと手袋まで投げ入れ、それを思いきり投げるのです。あの帽子のなかに投げ入れる手袋は精神分析的に言って何かということを、私ども昔の高校生は馬鹿馬鹿しく考えたりしたりしたものですが、ただ単に帽子のなかに手袋を投げ入れるだけであります。それでは次の例を見ていただきましょう。

(『ミスタア・ロバーツ』の抜粋の上映)

今、ご覧いただいたのは非常に不幸な映画でして、『ミスタア・ロバーツ』で主演がヘンリー・フォンダです。なぜ不幸かと言うと、これは自分の主演でブロードウェイで大当たりをとった舞台の映画化ですから、ヘンリー・フォンダが自分で全部仕切れると思ったら、監督がジョン・フォードになってしまった。もっとも、ハリウッドをしばらく離れていたフォンダでは客が呼べないから、ウィリアム・ホールデン主演でいこうという制作陣を説得して、ヘンリー・フォンダ主演でおしきったのがフォードだと言われています。ただ、ジョン・フォードからすると、ヘンリー・フォンダは昔は自分の言うことを聞いたけれど、今はニューヨークの舞台で当たっているので生意気になっている。お互いにどうもあんまり本気ではなく、ジョン・フォードは途中で病気になったということにして手を引いてしまい、残りはマーヴィン・ルロイが撮ったと言われています。元の舞台の脚本家だったジョシュア・ローガンが撮ったショットも幾つかあると聞いています。ところで、この作品を撮った直後にヘンリー・フォンダが日本に来て、フォードは「優れた監督であった」と過去形で言ったのです。私はそれを新聞で読みまして、以後、ヘンリー・フォンダと別れようと思ったわけです。今まで見てやってきたが、もうお前さんとは手を切ると。したがって、『荒野の決闘』という作品もそれまでは良いところがあると思ったが、良くないことにしようと自分に言い聞かせ、そのように振る舞いはじめました。これを「転向」と言うんですね。私が「転向」した作品であるということは不幸なんでしょうか、幸福なんでしょうか。しかし、ヘンリー・フォンダが主演したジョン・フォードの映画で素晴らしい作品はたくさんありますので、大きな問題はありません。今、見ていただいたのは、ロバーツが馬鹿な司令官をからかうために、司令官がいつも水をやっている棕櫚の木を捨ててしまうところです。最後にロバーツから死んでしまってから、その部下だった男がまた同じことをやっている場面がありますので、それを見ていただきましょう。

(『ミスタア・ロバーツ』の抜粋の上映)

優柔不断なダメ中隊長だったジャック・レモンが、ヘンリー・フォンダが戦死したということを聞き、フォンダさながらに棕櫚の木を海に投げ込んだ途端に強くなっちゃうところをお目にかけました。ここを誰が撮ったのかは分かりません。しかし、この『ミスタア・ロバーツ』が、物を投げる、しかも上官の植木を投げちゃうといういかにもフォード的な映画だということはよくお分かりいただけたかと思います。このシーンについては、私は三つか四つの解釈を持っていて、ことによるとここはジョン・フォードが撮っていないのではないかと昔から考えているのですが、それ以上くわしく論じることはせずにおきたいと思います。

これまで見た例は、いずれも男が物を投げるケースばかりでした。ところが、投げる動作には性別はいっさい無関係なのです。その例を見ていただきたいと思いますが、ジョン・フォードの映画では、男がネッカチーフを投げるという非常に奇妙な場面がありますので、それを幾つか見ていただきたいと思います。まず『騎兵隊』の例を見ていただきます。

(『騎兵隊』の抜粋の上映)

これはジョン・ウェインがネッカチーフを投げる直前のところですが、もう手がつけられないほど物を投げまくります。軍人としてああいうことをやっていいのか大いに問題なのですが、彼は元鉄道技師だったので、作戦とはいえ鉄道の線路をどんどん壊していく自分の兵士が我慢ならないのです。それにしても、憑かれたように物を投げている。物を壊し、あげくの果てに同僚に足蹴りをくらわして後ろからグラスを投げると。そのようなことが普通のアメリカ映画でよく描かれているかというと、そうではない。これは、フォード独特の場面なのです。とにかく同僚をぶん殴り、蹴飛ばし、部下を馬から引きずり下ろして蹴っ飛ばすわけです。もう軍人としては成立しないような振る舞いに及ぶのですが、『アパッチ砦』の例も見ていただきたいと思います。

(『アパッチ砦』の抜粋の上映)

ジョン・ウェインがネッカチーフを投げ捨てておりましたが、それは自分の上官が率いていた軍隊が無惨な敗戦をこうむることが分かってしまったからです。しかし、戦争映画でハンカチとかネッカチーフを軍人が投げるものでしょうか。ハンカチ、ネッカチーフの類は普通、女性の小道具と思われているのに、その性差をジョン・フォードは越えてしまうわけです。本来なら、貴婦人が卒倒する前に私を支えてくださいという合図として布を落としたりするわけですけが、ジョン・フォードにおいては男がひたすらその手の身ぶりを演じている。さらに凄いことに、戦闘の最中に自分のネッカチーフを投げてしまうシーンがありますので、それを見ていただきましょう。

(『騎兵隊』の抜粋の上映)

今、ジョン・ウェインがネッカチーフを投げたのには二つの理由があります。一つはキャメラをパンさせるために投げるわけです。キャメラを向かって右側にキャメラを向けろという合図です。もう一つは、先ほどの『アパッチ砦』と同じように、ジョン・フォードの映画では男が布を弄ぶということがしばしばあります。実際に見たわけではありませんので断言はできないのですが、ジョン・フォードはハンカチーフを玉にしてそれを口の端で噛みながら演出していたそうです。ハンカチを玉の形にしてそれをギリギリ噛みながら演出していたというのです。これも男のやることであろうかと思うのですが、実にそういうところが不思議な人で、女性の装身具を非常によく使うところがあります。では、次のところをお願いいたします。

(『アパッチ砦』の抜粋の上映)

あの愚かな司令官によって戦闘がはじまってしまうというので、インディアンの酋長のコーチーズがこう投げるわけです。しかも非常に大きな布を持っているあたりが面白いのですが、このセクションの最後に、ネッカチーフに対する執着を見ていただきましょう。

(『騎兵隊』の抜粋の上映)

なぜコンスタンス・タワーズがしていたネッカチーフをジョン・ウェインが取ったかと言うと、自分のネッカチーフを先ほど捨ててしまったからです。では、なぜ先ほどネッカチーフを捨ててしまったかと言うと、その前にジョン・ウェインはコンスタンス・タワーズのあのネッカチーフを見ているからです。ですから、あれを奪うためには自分の首に巻いているネッカチーフを捨てればいい。事実、彼は捨ててしまって、だから最後に彼女のネッカチーフを取ったという計算も成り立たないわけではありませんが、どうもそうではなさそうです。軍人が女性のネッカチーフを取り、それを自分の首に巻くというのは何とも奇妙な振る舞いです。そんな身ぶりを演じる軍人が、男のなかの男であるはずがない。男のなかの男が金髪の女性の髪を覆っていたあのブルーのネッカチーフに手で触れるのか。ジョン・フォードが男のなかの男を描いたと言われると、私はいつも反論のために今の場面を思い出させようとするのですが、誰もそんなことを覚えていない。そこで私は孤独を味わうことになるわけです。

そこで、これから、女の方がさらに凄いことをやっているというのを、しばらく見ていただきたいと思います。女性がそんなはずはないだろうということを平気でやるのがジョン・フォードの映画ですので、まず派手なところから見ていただきましょう。

(『鍬と星』の抜粋の上映)

これはまさに爆笑ものであるわけで、どうしてあそこに石が二つも都合よくころがっていたのかということから考えないといけないわけですが、悩むには及びません。ジョン・フォードの作品はこのようにできているわけです。ふたりの女がバーから追い出され、そこで何をするかと言うと、地面の石を掴み、それをバーに向かって投げる。ひとりならともかく、ふたりともが同じようなことをする。それがジョン・フォードの凄さです。これは『鍬と星』という映画で、このシーンは演出しているとき、まわりのみんなは喜んで大いに盛り上がったと思いますが、これが例外的というわけでは決してありません。

(『荒野の決闘』の抜粋の上映)

歌っているリンダ・ダーレルに向かって何かが放り投げられる。それを取って、弄びながら歌って、歌い終えるとそれを捨てる。まさに男性が何か事を起こすときと同じ動作をしているわけです。この後、彼女はいかさま賭博をしていたことがばれて、ヘンリー・フォンダに水槽のなかに放り投げ込まれてしまいます。

(『俺は善人だ』の抜粋の上映)

このジーン・アーサーの帽子の投げ方はジョン・ウェインの投げ方とまったく同じです。この会場にも女性が何人かおられますけれども、いったい淑女が自分の帽子をあのように投げていいものでしょうか。ジーン・アーサーとジョン・ウェインの帽子の投げ方はまさに同じなわけです。

(『コレヒドール戦記』の抜粋の上映)

ドナ・リードは非常に美しい女優ですが、ここではその美女が軍帽を投げるわけです。はじめて「ラスティ」とファーストネームで呼んで、ぽんと投げる。何の準備もないまま行われるこの投げる動作と受けとる動作によって、ジョン・ウェインとドナ・リードとは離れられなくなるのです。これは『コレヒドール戦記』のなかの限りなく美しいシーンの一つです。

(『モガンボ』の抜粋の上映)

これは、『モガンボ』のエヴァ・ガードナーです。彼女がやるから面白いんですが、酒瓶を投げるというような男がやるようなことをほとんどそのまま、しかも思いきり誇張してやっている。フォードは、それを文句も言わずにやってくれる女優にも感謝しなくてはいけない。こんな役、嫌よと言われたらもう実現しないわけですから。あのボトルを投げようとするのをふとやめて、一口飲んでから、まずさに顔をしかめて投げ捨てるというのもジョン・フォードの男たちがよくやっていることです。これは、エヴァ・ガードナーが自分の寝室でひとりでやってのける仕草ですが、女性が、戸外で、衆人環視のもとで物を投げる場合もあります。

(『ドノバン珊瑚礁』の抜粋の上映)

ボストンから太平洋の島に着いたエリザベス・アレンが、船着き場がないのでボートのジョン・ウェインに向かってパンプスを投げるところからはじまり、彼女が自分の持ち物を全部投げて、ついには自分自身も船から海中に落ちてしまうところで終わっているわけですが、このエリザベス・アレンとほとんど同じ投げ方をやっている次の例を見ていただきましょう。

(『リオ・グランデの砦』の抜粋の上映)

ここでのジョン・ウェインは、ベッドを別居中の妻に譲って馬車の前で着ている物を脱ぎ、それを次々に馬車の中に投げ入れるとき、エリザベス・アレンとほとんど同じ投げ方をするわけです。こうして、フォードの作品にあっては、その投げる身ぶりにおいて、男性、女性の境界線がますます怪しくなってくるわけですけれども、次の例を見ていただきたいと思います。

(『荒鷲の翼』の抜粋の上映)

夫がしばらく帰ってこないことが分かる悲しい場面ですけれども、なぜかレコードが壊れて、あのような物が飛び出し、彼女がまた投げるわけですね。女性が投げるところについては、今日はこの程度にしておきたいと思います。それでは『駅馬車』の例も見ていただきましょう。

(『駅馬車』の抜粋の上映)

サイドスローと言いますか、今まで見てきた女性たちとほとんど同じ投げ方でジョン・ウェインが馬に石をぶつけています。では、次に『荒野の決闘』の例を見ていただきましょう。

(『荒野の決闘』の抜粋の上映)

今の投げ方は先ほどのエヴァ・ガードナーにそっくりです。こうして、フォードにあっては、男性女性の区別なく物を投げているわけですが、では、いったいどこに向かって投げているかということにも注目すると、そこには水面が拡がっている。つまり、池があるとだいたいそこに投げる、川があると石を投げるということがありますので、『肉弾鬼中隊』の例から見ていきましょう。

(『肉弾鬼中隊』の抜粋の上映)

今は、石ころが砂漠のオアシスに投げられて水面に波紋がたったところをご覧いただいたのですが、この手の波紋がジョン・フォードには無数にあります。次の例は、この波紋が男性と女性を結びつけているところを見ていただきたいと思います。『馬上の二人』をお願いいたします。

(『馬上の二人』の抜粋の上映)

私の考えですと、今の投げ方は失敗ですね。『シャイアン』のエドワード・G・ロビンソンの葉巻の投げ方がそうであったように、ここでのリチャード・ウィドマークの投げ方はややたるんでいる。まあ、これは初めて出演したフォード映画だったから、投げることの意味を充分には理解していなかったのでしょう。次の例のヘンリー・フォンダを見てみると、その違いがお分かりいただけると思います。

(『若き日のリンカーン』の抜粋の上映)

ヘンリー・フォンダが顔を一瞬こちらに向けて、まるで野茂みたいな投げ方をしていたわけですが、波紋が水面に見事に拡がり、不意に冬の場面に移って、前の場面では一緒にいた女性が死んでしまっており、その墓参りに来る場面に続くのです。木の下に寝転がってヘンリー・フォンダが法律の勉強をしていると、ポーリーン・ムーアがやって来て、しばらく川のほとりを歩いて、あの場面になるわけです。どこまでお見せしようかと思い、昨晩この場面を何度も何度も見ているうちにだんだんこみ上げてくるものがあり、ああ素晴らしい、全部お見せしたらまた演壇で泣いてしまうだろうと思い、今のところだけにさせていただきました。ここでは、投げることで女性が遠ざかってしまう。死んでしまうのです。しかし、今度は投げることで探していた女性が向こうからやって来るという場面、これを見ていただきたいと思います。おそらく『捜索者』のなかでもっとも優れた美しい場面だと思いますし、ジョン・フォードの映画のなかでももっとも優れた場面の一つだと思います。ジョン・ウェインが何気なく物を投げたら何が起こるか、それをじっくり見てください。

(『捜索者』の抜粋の上映)

センチメンタルな話になろうとすると、そこに必ず何かが、弓矢のような物が飛んできたりして活劇になってしまうところがジョン・フォードの特徴です。湖水に石があたると遥かな砂丘の上からデビーが姿を見せる。これは奇跡としか思えない場面だといつも胸がしめつけられます。ジョン・ウェインが湖面に向かってふと小石を投げると、失われていた女性がいきなり現れ、砂の斜面をすべるように湖に近づく。投げることによって女性を失う。あるいは、投げることによって女性を引きよせる。そのようなことがしばしばあったのですが、それでは、投げることで女性を失った男はどのようなことをするのかを見ていただきたいと思います。

(『リバティ・バランスを射った男』の抜粋の上映)

投げることによって女性を失った男は、ただひたすら投げ続けるしかないわけです。投げることによる自己処罰と言いますか、自分自身をほとんど崩壊に追いやっていくわけですけれども、まあ投げること、投げること。投げられている物が何であるか列挙できないほどです。

最後に、ジョン・フォードにおいては、投げることだけでなくて手放すことも重要なテーマになっているということを見ておきたいと思います。まずは『果てなき航路』の例を見ていただきます。

(『果てなき船路』の抜粋の上映)

まず投げることが起こります。それを顔面に受けとめることで、労働者は船に積み込まれてしまう。そして、その男を乗せた船がドイツ軍に沈没させられたことを知り、仲間がその新聞を捨てるわけです。その新聞記事が水中で大写しになります。撮影監督グレッグ・トーランドならではの素晴らしいショットです。つまり、人々の前から姿を消してしまった友人の死を誰にも知らせまいとして新聞を手放す。それが、港を離れる船の船体にはりついたまま、物語を要約するのですが、手放すことはだいたい敗北や喪失に繋がっています。ジョン・フォードはアイルランドの独立運動を何度か作品にしていますが、アイルランドの国旗を手放すことで敗戦を示す場面、それを次に見ていただきましょう。

(『鍬と星』の抜粋の上映)

素晴らしい舞い方をしてアイルランドの旗が落ちるわけです。それとほとんど同じような形で、ある女が扇子を落とす場面を見ていただきましょう。

(『逃亡者』の抜粋の上映)

ドロレス・デル・リオが演じているあの女性は警官に追われているヘンリー・フォンダを助けようとしてああいう踊りをしていたわけですけれども、それを警官に見られてしまい、もうどうしていいか分からず、手に持っていたあの扇子を落とす。それが決定的な場面になるわけです。それでは『荒野の女たち』の最後を見て、今日のお話を締めくくらせていただきたいと思います。

(『荒野の女たち』の抜粋の上映)

ジョン・フォードのキャリアの最後の作品は、女性が飲み物を入れていたグラスを投げ捨てることで終わっております。投げ捨てると言うより、力なく手放すと言うべきでしょうか。この場面でお話しを終わらせていただきますが、だからどうというほどの結論はありません。ただ、ジョン・フォードほど投げるという「運動」にこだわった映画作家はおらず、そのことに素直に驚きたいというだけのことです。それは、なによりもまず、モーション、すなわち「運動」にほかなりません。投げる主体も動き、投げられた客体も動くのです。空間を移動するのです。しかも、その移動は瞬間的であり、その瞬間性が、それまでとは異なる環境を作品に導入するのです。この瞬間的な「運動」を見のがすと、映画はわれわれから遠ざかってしまいます。つまり、一篇の作品は「運動」として体験されてはいないことになってしまうのです。それは、『ドクター・ブル』のように、はじまりを告げる動作であり、いま見ていただいた『荒野の女たち』のように、終わりを告げる動作でもあるのです。今日お見せしたかった映像はまだまだたくさんありますが、ここで「非完結編」として終わらせていただきたいと思います。ただ、ジョン・フォードはしばしば男の作家だといわれていますが、投げるという動作は、男性と女性とに等しく共有されています。男だけが投げていたわけではありません。今後、さまざまなかたちでジョン・フォードの映画を見られる機会があろうかと思いますが、どうか、その事実だけは、はっきりと瞳に焼き付けていただきたいと思います。