アテネ・フランセ文化センター

講演「特集 小川紳介と土本典昭」

2005年8月18日

佐藤真(映画作家)

佐藤です。どうも。土本さんもお見えになっていらっしゃいますね。『三里塚・辺田部落』と『不知火海』というこの二本の作品についてお話をせよということで、私には大変荷が重いと思っております。何せ、『不知火海』という作品は水俣シリーズのなかでも最高傑作だと思いますし、それから今観ていただいた『三里塚・辺田部落』も三里塚のシリーズのなかではやっぱり突き抜けた作品、最高傑作だと思います。私だけではなくて色々な人にとっても、やはりこの二本が土本さんと小川さんの作品の大きな峰の最高峰に位置していることだけは間違いないだろうということで、私などがお話をするのは大変僭越なんですけれども、この二本がなぜ三里塚シリーズと水俣シリーズの峰の頂点に立っているのか、立ち得たのかということについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

なぜ頂点に立っているのかを言うのは大変難しいんですけれども、上映時間のことを考えてもやっぱりその当時としては突出していた作品だと思うんですね。1973年の『三里塚・辺田部落』が146分、それから『不知火海』が153分。今の時代ですと、160分とか200分とか三時間に近くなる映画というのは決してそれほど長い上映時間ではないと考えられていますけれどもね。

さて、この時代に土本さんと小川さんたちがお作りになっていた映画のサイクルを考えていただきますと、自主映画を自主上映で上映していくサイクルですね。三里塚の運動の渦中から、三里塚のある意味でニュース的な現地報告という形をとりつつ、三里塚の闘いの深部にある農民の魂とか心というものを映画という形で発信し、自主上映を展開してきた小川プロダクション。土本さんも『水俣—患者さんとその世界』以来、土本さんの言葉でいえば「光る患者」ということで、犠牲者としての被害者像ではなく、犠牲を強いられた上で闘いに突進していったときに輝く患者の魂の記録というものを、水俣病の闘争の大きな柱として主軸に据えるような映画運動を展開してきた。小川紳介と土本典昭の一連の作品というのは、まさに運動の渦中から、運動の魂の拠り所みたいなものを非常に綿密に描き、それを自主上映で人々と一緒に共有してみて、それをもう一回三里塚なら三里塚の運動に、水俣なら水俣の運動に跳ね返らせ持ち帰っていく大きなうねりのような映画運動を展開してきたわけですね。ある意味でニュース的な側面もあって、映画による現場報告という側面もありましたので、自主上映の後におそらく色々な形で討論であるとかが各地の上映会で行われたかと思うんですけれども、この最高峰に位置する二本の映画は実は非常に自主上映がやりにくい映画だったんだろうと思うんですね。というかですね、運動のサイクルから出てきた映画なのに、この二本は運動の映画という枠をはみ出していくというか、乗り越えてしまうというか、横溢してしまう。とにかく運動の映画という形で捉えようと思うと捉えきれない何かが、映画という形で突出していくんですね。

今観ていただいた『三里塚・辺田部落』の方から少し話しをしようと思うんですけれども、なぜ三里塚の運動のなかから『三里塚・辺田部落』という映画が生まれ、それがその三里塚闘争の報告から横溢して、辺田部落の村の時間というものに焦点が移ってきたのか。映画としては非常に高い完成度に達しながら、現場報告的な自主上映の映画としてはとても上映運動がしにくい。そのことによって、この作品は、小川さんが三里塚を離れて山形に転出する、移り住んでいく大きな契機になったと私は思っているんです。

その『三里塚・辺田部落』という映画のことを語る上で一番のキーパーソンは、この映画の助監督だった福田克彦さんだと思うんです。残念ながら福田さんはお亡くなりになって、私は個人的には福田さんとかなり親しくさせていただいて、自分の映画作りは実は福田さんから非常に大きな影響を受けている感じがあるんですね。『三里塚・辺田部落』という作品には、この映画で描かれている肝煎り役のような感じで、辺田部落の村の色んな人間関係の調整をとりながら演出をしていく立場で関わっていらっしゃるんです。小川プロダクションが三里塚から山形に移り住んだ後も、山形で一緒に行動を共にしながら小川さんと徹底的に対立して、そして山形を離れて70年代の後半に三里塚に一人で戻って、集団制作ではなくて個人映画として『草とり草紙』という作品を80年代の中盤にお作りになるんですけれども、その福田さんが小川プロダクションでの体験を何度か文章にまとめていらっしゃいます。その文章を読みますとですね、小川プロダクションの演出が大きく変容したポイントが幾つかあったと。一つは『日本解放戦線・三里塚の夏』という三里塚の第一作目から『日本解放戦線・三里塚』という第二作目にかけて、小川プロダクションの演出部のスタッフが総入れ替えになっている。この大きな転換が一つあった。キャメラマンも大津幸四郎さんから田村正毅さんに変わっている。そして、それまで小川プロダクションの作品を支えてきた演出部、そのなかには後にノンフィクションライターとして活躍される吉田司さんとかそういう方たちもいたんですけれども、そういう演出部がごそっと抜けて、福田さんが次の順番ということでチーフに上がっている。この大きな変化が何だったのかということを福田さんが書いているんですけれども、その福田さんの文章は私が「ドキュメンタリー映画の地平」という本のなかで『三里塚・辺田部落』を詳しく分析したときもかなり引用させていただいたんですが、福田さんはその変化を今までの「攻め」の演出から「待ち」の演出に変わっていく、変容していくと集約されています。村の時間というものを撮るために「待ち」の態勢に入っていくということですね。小川さんがその当時語っていた「僕はここに居る」という言葉があります。これは福田さんの説明ですが、「ここに居ると」いうときの「ここ」は三里塚の自然風土であり、「居る」というのは対話ですね。「ここ」と「居る」を描いていくためには、今までのように状況を作り、テーマを設定をして攻め込んで撮っていくのではなくて、村の時間のなかに内在していって、村の時間のなかで変容していく自然風土であるとか、村の時間のなかで変容していく運動の形態というかですね、そういうことを「待って」いくことになると思うんですね。

年表的に言いますと、小川プロが瓜生さんのお宅の離れに家を借りて共同生活を始めたのが、71年の1月になるんですね。辺田部落の瓜生宅の離れで生活をした小川プロダクションが、第一次強制代執行の激しい闘いを辺田部落の農民たちを中心に撮ったというのが『三里塚・第二砦の人々』という作品です。この『三里塚・第二砦の人々』という作品が、辺田部落の闘う農民たちのまさにハレの場というか、木に体を縛ったり、地下要塞を作ったりとかする激しい闘いを撮っていく。辺田に小川プロダクションが住んで一ヶ月後に第一次強制代執行があって、それをずっと撮影を続けて、71年の5月には『三里塚・第二砦の人々』が完成する。非常に短いスパンで第二砦の闘いを記録していく。昨日『三里塚・第二砦の人々』をご覧いただいた方は、今日の『三里塚・辺田部落』に出てきた人たちの顔と名前がほとんどお分かりになると思います。例えば、今日の『三里塚・辺田部落』で最初に出てきたトモジタの爺さんとかですね。それから、木に体を縛って元気いっぱいの椿たかさん、先ほどの『三里塚・辺田部落』では、大根を男根に見立てる例のお祭りに使う作り物を一所懸命に作って自慢をしていた大変ユニークなヘエベエの婆さんとかですね。そういうキャラクターがすべて『三里塚・第二砦の人々』のなかではすでに揃っているわけですね。

『三里塚・辺田部落』は、71年から72年にかけて辺田部落に住み込んだ小川プロダクションが、闘いのハレの場ではなくケの場というか、闘いが非常に激しい局面を迎えて権力と直接対決をしていた時期から、弾圧事件が起きて、青年行動隊が逮捕されて、それで運動が沈滞していく冬の時期に、この村がどうこの一年間の時間を耐えつつ動いていくのかを撮っていこうということで作られた作品なんです。で、福田さんの話を少ししますと、福田さんがお撮りになった『映画作りとむらへの道』という『三里塚・辺田部落』を観るときに大事な作品があるんですが、小川プロダクションの集団制作についての記録映画を小川プロのその当時のチーフ助監督であった福田克彦さんに作らせるという形で制作が開始されて、小川さんが出来あがった作品を観て、これは小川プロダクションの良い意味での宣伝にはならないという判断だと思うんですけれども、完全に封印してしまって、小川さんと福田さんが亡くなった後にはじめて山形の映画祭で上映されて、いやこんな映画があったのかとびっくりした作品です。『三里塚・辺田部落』の撮影当時に小川プロダクションがどういう生活をし、またどういう風に映画の編集をし、それから日常の断片が描かれて、東京の製作部の大変貧しい、つましい感じの日々、お金集めをしながら、地方の上映から持って帰ってきたほやか何かを皆で眺めているところで終わる映画です。この映画で幾つか大事なポイントが描かれているんですが、村の時間を撮るために、同時録音のキャメラの機材をいかに手に入れるのかが一つの大事な技術的なポイントなんですね。小川プロダクションは、『三里塚・辺田部落』のときにはすでに同時録音のキャメラのシステムを持っています。71年の9月にエクレール、NPRという機材なんですけれども、それとナグラを手に入れまして、同時録音のシステムを完成させる。完成させた同時録音のシステムがいかに凄いかが、『映画作りとむらへの道』のなかで延々と語られています。こんなにキャメラが輝かしいんです、録音はこんなに凄いんですということを、『三里塚・辺田部落』のトノジタの爺さんがここの道だと言って喋る場所で、撮影の田村さんと録音の湯本希生さんが自慢げにお喋りをするシーンがあります。そのくらいに同時録音の機材は小川プロにとって涎がでるほど欲しかった機材で、それによって村の時間が撮れたんだと思うんですね。大雑把にお話しましたけれど、小川さんが言う「僕はここに居る」の「ここ」という自然風土と「居る」という対話を、いかに「待ち」の姿勢で撮っていくか。これが『三里塚・辺田部落』という映画が最高峰に登り詰めた、非常に大きな要因だと思うんです。

今日、後半だけ『三里塚・辺田部落』を観ながら改めて思ったんですけれど、この作品が小川さんの三里塚シリーズの最高峰に登り詰めたのは、この当時撮りためていたさまざまなフィルムを膨大に捨てたことも要因のひとつだと思いまして、そのことをちょっとお話して、土本さんの『不知火海』の話に繋げていこうと思います。三里塚の自然風土ですけど、自然のなかに暮らしているさまざまな虫とか鳥とかを、小川プロはこの時期にかなり撮っているらしいんですね。蜘蛛であるとか、さまざまな自然の生き物を撮っているらしいのですが、『三里塚・辺田部落』では蛇が疾走するシーン以外はまったく使われていないんですね。それから、村の日常を撮ろうとする場合、僕も実は新潟で田んぼを手伝ったりしましたが、農作業を撮るんですよね。村の日常というのは日々農作業ですので、それを撮る。田植えからはじまって草刈り。草刈りも一番、二番、三番、それから稲刈りまで続いていく。稲の暦はそういうことになりますし、それから、この映画に出てくる西瓜など、季節の田畑を彩るさまざまな農作物。そういう農作業を撮ろうと僕は思いましたし、小川さんも農作業を膨大に撮っていると聞いているんですけれども、農作業としてこの映画のなかで使われているシーンは実はワンショットもないんですよね。最後で出てくるおばさんたちというか婦人行動隊の、ほかのさまざまな話を全部まとめるような見事な野良作業の休み時間の会話があって、そこで青年行動隊のこととか村のことがすべて見えてくるんですけれども、その後に立ち上がって、さあ行くべ、仕事すべ、と言って出かけていくところは、稲刈りの野良の仕事ですのでね、当然のことながら稲刈りのシーンを撮っているはずなんですが、それは一切使われてないんですね。

小川さんはなぜこの時期の農作業を使わなかったのかを色々と語っていまして、農作業の形しか撮れない、農民の心が一切撮れない、農民の心が撮れないなら使わない、というような言い方を小川さんはしているんですが、どうも僕はそれだけではないような気が実はしています。福田さんに僕の撮った映画を厳しく批判されたときに言われたことで非常に印象に残っている言葉がありまして、援農というのがありますけれど、三里塚では、学生が農民を支援する形で援農していた。映画班が撮影対象に、まあ言ってみれば、深い人間関係を作るために農業を手伝っていた。私たちも新潟で村に入るための方便として村の田んぼを手伝うことからスタートした。だけど福田さんの言葉で言うと、援農というのは人間関係の堕落のスタートである。援農したことによって、農民の姿、魂が見えなくなってくる。映画を撮る人間はいかに手伝いたくても、額に汗しながら働いている人間にいかに痛烈な批判を浴びせられても、こんなに私が苦しんでいるのに手伝ってくれないのか、お前は人でなしだという風な眼差しで射るように見つめられても、やはりそれを手伝ってはいけない。それが映画を撮る側というか、「《観る》という宿命」だと福田さんは言っていました。一旦手伝ってしまうと堰を切ったように人間関係が堕落すると言われたんですね。農民の労働する姿からいかにその魂を描くかという問題を映画のテーマとして考えていたこの当時の小川プロダクションは、この時期の農作業のフィルムはやはり援農の延長線上で撮っているにすぎないと判断し、農作業のシーンをすべて外したんだと思うんです。

農作業がありません。それから、撮りためた動物たちもない。残っているのは村の時間。村の時間は部落集会。延々と部落集会が展開していく。逮捕のシーンとかはありますけれども、風景ショットとかはまったくないですね。通常の映画の構成ではないことによって、農民たちの日々の生活、それから日々の笑い、朝を迎えて夜を迎えるということを勝手にこちらが想像せざるをえない。おそらく、そこに村の時間が展開していくのではなかろうかと思うんですね。この『三里塚・辺田部落』という映画は、村の時間をぼそっと荒削りのまんま観客に提示するわけです。それに対してどういう態度をとれば良いのか。どう考えれば良いのか。『三里塚・第二砦の人々』の後に『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』という作品も出来ていまして、それはまったくニュース的な映画として作られている。そういう、三里塚闘争の最前線から、三里塚で今、何が行われていて何が問題なのかをトピックとして提示していくような映画を期待していた自主映画の、三里塚を支援する運動体には、この『三里塚・辺田部落』で提示される村の時間にどう対峙して良いか分からないという戸惑いがおそらくあったのではないかと思うんです。一方、この村の時間が提示されたことがとんでもなく凄いことだと分かる人たちがいて、それは村の時間を生きている人たちなんですね。山形の上映会でこの作品を観て、これこそがまさに村だと言って小川さんたちを山形に呼び寄せる一つのきっかけになった木村迪男さんとかですね。三里塚闘争の映画だと思っていたら、三里塚闘争を通じて村そのものが見えてくる。村そのものがいかに見えにくいか、それは山形の木村迪男さんとか、農民運動、それから農民文学をやっている人たちが考えてきたことだと思うんです。けれども、見えにくい、外の者に対してはぴしゃと門戸を閉ざしてしまうような村の時間が撮られている。これはとんでもなく凄い、とんでもない人たちがいるということで、高い評価をされたんだと思うんですね。

71年からこの『三里塚・辺田部落』を撮るまでに二年間かかっているわけですけれども、比喩的にいうと、村の時間がまさに光輝くためには触媒のようなものが必要だった。つまり、外の者ですね。光るためには触媒が必要ですが、その役割を果たしたのが小川プロダクションだと思います。いかに強い影響を与えたか。その例として、小川プロダクションが住まいを借りていた瓜生さんのお宅の長男が瓜生正彦さんで、彼は青年行動隊で逮捕されていますけれど、次男は瓜生敏彦といいましてキャメラマンになって小川プロに持っていかれちゃうんですね。おふくろさんとしては、長男は逮捕されてしまうし、次男は小川プロに持っていかれちゃって何なんだという話ですけれども。強い磁場のような影響力を持ちながら、村の若い人たちの魂をわあっと掴んで、触媒の役割を果たして、それによって村のこの一年間の時間が映画の前に現出したと思うんですね。その後、三里塚の村は一気に閉じていきます。その閉じていった時期に、福田さんは山形を離れて一人で70年代後半に三里塚に移り住んで、集団制作の、まあ言ってみれば弊害を総括する形で、個人映画という形式で一人の人間を撮っていく。それが『草とり草紙』という映画で、染谷カツさんという一人暮らしのお婆さんを、その当時一人暮らしを続けていた福田克彦が一人で8ミリキャメラを撮りながら作っていくわけです。

そんなことが、小川さんが『三里塚・辺田部落』という映画で試みた、というか『三里塚・辺田部落』が三里塚シリーズの最高峰になった理由だと思うんですが、土本さんの『不知火海』が、小川さんの三里塚と同じような意味で、政治的な水俣病の運動の文脈から出発しながら、運動の映画をどこかで逸脱していってしまった大傑作であり、それがなぜ可能だったのかというお話もしていきたいと思います。土本さんがいらっしゃる前で大変恐縮なんですけれども、昨年の「土本典昭フィルモグラフィ展」での土本さんのお話をおまとめになった「ドキュメンタリーとは何か」という本で、私が深い感銘を受けたのが、プロデューサーの高木隆太郎さんと土本さんの一連のやりとりです。そのお話を少し敷衍をしながら、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

『水俣—患者さんとその世界』が1971年、それから『水俣一揆』が73年。土本さんは水俣の患者の運動の最前線にいながら映画を作っていく存在として僕には見えていたんですけれども、土本さんは1965年にテレビの番組として『水俣の子は生きている』という作品を作り、実はそのときに今後映画を作れないかもしれないという挫折感、というか絶望を痛感されていたわけですね。無断で撮影したある患者の家族からの強い抗議をその通りであると受け止めざるをえない自分を見つめながら、ドキュメンタリーとは何かということを深く突き詰め、水俣という世界の奥深さ、それから水俣に付き合うことの怖さを痛感されたわけですね。そのようなときに、高木隆太郎さんが土本さんをある意味では励まし、ある意味では説得をして、一緒に『水俣—患者さんとその世界』という映画を作りあげていく。『水俣—患者さんとその世界』もそうですし、それから小川プロの三里塚シリーズもそうなんですけど、これらが単に水俣、三里塚の運動の渦中から発されたゆえに、多くの人たちが映画を通して運動に関わっていったということだけではなくて、『水俣—患者さんとその世界』という映画が水俣の患者の運動の在り方というか、スタイルを規定してきたと思いますし、小川さんの三里塚の一連の作品が三里塚の運動の根っこにあるモチーフみたいなものを規定したのだと思います。この両者の映画がなければ、たぶん水俣の運動も三里塚の運動も今のような、かつてのような形態は持たなかっただろうと思うんですね。

僕は水俣の運動に遅ればせながら80年代位に関わったのですが、土本さんの映画が語ってこられた患者像、「光る患者」と言われていたことですが、とにかく人間として相対にチッソ、行政、国に言いたいだけ言う、そのことを支えるのが水俣の支援者であるという認識は、内規ではないのですけれども、みんながもっていたんですね。80年代はそうでしたし、90年代もそうだったでしょう。もちろん70年代の患者運動の最盛期では、このことはもっときっちり議論されていたと思います。それは、やっぱり土本さんの『水俣—患者さんとその世界』、それから『水俣一揆』以降のさまざまな作品のなかで、映画のなかで輝いていく患者の姿を観て、その人たちの魂の有り様の発露する現場を観て、単に裁判であるとか自主交渉においてより完成された補償のシステムを作るというような合理的な運動のスタイルではなくてですね、非合理としての患者の怒りの発露をどうやってわれわれは支えていくのか、ということを突きつけられたような気がするんですね。

福田さんの言葉ですが、小川プロダクションの場合は「待ち」の態勢を作っていくことによって借金がどんどんどんどん雪だるまのように膨らんでいったわけですが、高木隆太郎さんというプロデューサーが考えたことは、借金をして作り、上映で借金を返していくことが可能な映画、医学の、まあ言ってみれば教材映画を作るということです。水俣病の問題を医学の問題としてきちっと提起し、またそれは採算的にも十分に成り立ちうる。ということでスタートしたのが『医学としての水俣病—三部作』という作品なんですね。これは三部作で276分、四時間半近くの大作ですけれども、高木さんの当初の目論みでは、医学の教材映画として構想されましたので、30分で三本、計一時間半の教材映画ですね。臨床・疫学、病理・病像などの問題について手短に30分三本の教材としてまとまっている作品があれば、たぶん売れるであろうと。ですから、三里塚の闘争の現場ではなくて村の時間を撮る、小川プロダクションの『三里塚・辺田部落』の構想とは裏腹な方向で、『医学としての水俣病—三部作』は当初構想されたのであろうと思います。ところが、土本さんが医学部の先生たちにあたっていくなかで、そういう教材映画は不可能だという現場に遭遇をしていき、この映画はどんどんどんどん膨大になっていくんですね。その結果、30分で三本の構想が三本合わせて四時間半という作品に膨らんでいく。その理由については土本さんがおられる前で私がお喋りするようなことではないので、簡単に土本さんの言葉でまとめさせていただくと、結局、水俣病の教材映画は不可能であると。なぜなら、水俣病は現在進行形の病気であるからである。それから、水俣病の全貌は未だに分かっていない。病理・病像だけではなくて、特に疫学の世界になるとまったく分かっていない。全貌が分かっていない水俣病を敢えて分かったような形で医学の教材としてまとめることは不可能である。公害補償としては最高レベルの補償協定を患者の運動の蓄積によって作り上げた。しかし、それで問題が収まるのかと思ったらまったくそうではなくて、それから未認定患者の問題と未解明な問題が山のように出てきた。そのことに土本さんは『医学としての水俣病—三部作』で向かわざるをえないわけですね。誠実に向きあえば向きあうほど映画は長大にならざるをえない。長大になればなるほど採算的には苦境に立たざるをえない。教材映画として医学部が必要としているのは手短に水俣病のことが学生の人たちに分かる作品ですけれども、この四時間半の映画を観れば観るほど、水俣病の全貌がいかに分かっていないのかということが分かってくるんですね。

今日観ていただいた『不知火海』は、高木さんの言葉ですけれども、高木さんがあまり了解しないところで、土本さんが不知火海の海の生活を撮りはじめて、『医学としての水俣病—三部作』の撮影過程でその番外編として作られたんですね。高木さんが土本さんとの対話のなかではっきりと仰ってるんですけれども、高木さんから『不知火海』という映画を作ろうと提起したことはなくて、『医学としての水俣病—三部作』の副産物のような形で制作された。けれども、高木さんはこういう映画がまさに私の念願だったのですと仰っています。『医学としての水俣病—三部作』の予算、30分三本という作品から逸脱をしていく大きなうねりのなかで、それから更に逸脱をして不知火海という海に対する大きな構想が生まれたんだと思うんですね。

その当時、私はもちろん居合わせていませんけれども、岩波ホールで『医学としての水俣病—三部作』と『不知火海』とで合計すると七時間位の映画として上映されたと聞いているんですが、水俣病がいかに把握しがたいほど複雑で、未解明なことがこれほど多くて、また、さまざまな暮らしがあり、さまざまな医学者の試みがあり、それから患者の運動のさまざまな試みがあり、全体像が掴めない巨大なカオスのようなものを観客にぼーんと提示したんだろうと思います。74年から75年にかけて、水俣で問題になったさまざまなことがこの七時間のなかで展開されている。そのような作品だと思います。

この時期に『医学としての水俣病—三部作』と並行して、「水俣病—20年の研究と今日の課題」という本が、その当時の青林舎のスタッフを中心にまとまっていくんです。これもまたとんでもない水俣病の研究書で、医学の研究書としては最高峰に位置してしまう本なんですね。水俣の運動では通称、青本と言っています。表紙が青いので青本です。値段は忘れましたけど、とにかく分厚いんですね。みんな持っているんですけれども、最初から最後まで読んだ人はいないという位に凄い本なんです。有馬さんという方が編集でまとめたんですが、当時の映画のスタッフの研究、アプローチが『医学としての水俣病—三部作』『不知火海』という七時間の巨大な映画になるだけでは飽き足らず、というかそれだけではもったいなくて、医学的な本としてまとまっていくんです。

『不知火海』は、水俣病の裁判の闘争の後の冬の時代というか、胎児性の患者のさまざまな青春の煩悶とか、補償金をもらってしまった後の生活の苦しみ、苦しみというのは単に病気の苦しみだけではなくてお金をもらっても何も解決しない、人間として抱えている大きな闇の問題とか、そういうことが語られているがゆえにですね、『水俣—患者さんとその世界』『水俣一揆』という映画の延長線上で水俣の今後の活動、運動の方向性を提起してくれる映画として観ようと思うと、あまりにも遠大な問題が語られすぎていて、何一つ明快な指針といったものが見えてこないんですね。おそらく当時の自主上映、自主映画のサークルのなかでは、観客の欲望とどこか齟齬をきたしてしまう作品だと僕は思うんです。それゆえに『不知火海』という映画は、今観ると、現在に至る水俣のすべての問題の源泉が見えてくるような作品だとも思うんですね。

『三里塚・辺田部落』と『不知火海』についての私が考える雑駁な感想とそれから作品の周辺のお話をざっとしてきたんですが、70年代に日本の住民運動のなかでもっとも光り輝いていたというか、権力との緊張関係がもっとも熾烈であった三里塚と水俣、その二つの現場で、土本さんは決してそこに住み込んで映画を撮ろうとはなさりませんでしたけど水俣と東京を行き来しつつ、患者運動をある意味でオルグりながら70年代から80年代に映画を作り続けてこられましたし、三里塚の小川さんたちは60年代の後半から75年くらいまで三里塚の運動の在り方を規定するような映画を連作してきたわけですね。けれども、二人ともやっぱり行き着くところ、運動の論理をどこかで越える映画に踏み込まざるをえない。別の視点から言うと、運動が光輝いていた時期は、水俣の運動なら73年から患者の補償協定まで、三里塚の闘争なら71年72年の強制代執行までなんですね。それ以降の運動では、村のなかでのいざこざ、足のひっぱり合い、運動の四分五裂といったさまざまな問題を抱えざるをえなくなります。映画にはその崩壊の兆しがすでに見えている。『三里塚・辺田部落』を今観ると、崩壊の兆しがどこかで見えてくるんです。このままではいかないだろうとわれわれはどこかで思ってしまう。だからこそ、この『三里塚・辺田部落』という映画には、一人一人が光輝く瞬間が写っているんですね。何とも魅力的に輝いてしまう。例えば、最後の宴会のところでキャラクターが実に立ってくるわけですね。本当に瓜生彦重さんは彼らしい挨拶だし、また、トノジタの父ちゃんはこういう言い方だしって。役者が演じたらこんなに見事にキャラクターは立たないなと思う位に、集会の短い発言から一人一人の人生がまざまざと想像できてしまう。そのような時間が撮れてしまっているんですけれども、この時間が永続しないことも、われわれ映画を観る側にはどこかで見えてしまう。凄く残酷だと思うんですけれど、失われるほかないゆえに光輝くという瞬間が映画にはたぶんあると思うんですね。写真を撮ると魂が抜かれるという村の人たちの言葉は、まさにそれを直感して言い続けてきたことでしょうし、ある意味で、『三里塚・辺田部落』の人たちも土本さんの映画の患者さんたちも魂を抜かれたのではないかと思うんですね。だけど、それを良しとしてキャメラの前に向かってくれた人たちがいて、また作り手がそういう関係を作ってきたからこそ、『三里塚・辺田部落』にしても『不知火海』にしても、運動の枠を凌駕して横溢してしまう世界に踏み出していき、この『三里塚・辺田部落』の後、小川プロダクションは山形への移住という大きな転換を決め、土本さんは『不知火海』の後、『海は死なず』という巨大な映画の構想をお考えになりながら、原発やアフガンの問題とか取り組みつつ、もう一回水俣の世界に戻ろうとされてきたと思うんですね。

それから、僭越で雑駁ですけれども、運動の論理に基づいた映画の自主上映から生まれて、自然にその論理を越えてしまった『三里塚・辺田部落』という小川さんの73年の作品と『不知火海』という土本さんの75年の作品、このふたつの作品が制作された時期は、日本の農村社会、漁村社会に続いてきた共同性みたいなものが急速に変容していく時期と重なるわけですね。これは福田克彦がずっと言っていたことなんですけれども、農村が農村でありえた共同作業、つまり稲刈りとか田植えなどが、70年代後半になると、田植え機と稲刈り機、それからコンバインによって三里塚においても急速に変容していく。農村が共同作業を必要とする共同体から個の世界に急速に変わっていく時期が70年代の中盤だった、と福田克彦さんが三里塚に戻って成田空港の開港後の村の暮らしを見ながら言葉にまとめられています。その共同体が大きく変容していく時期に、土本さんと小川さんという日本のドキュメンタリーの両輪が、『三里塚・辺田部落』と『不知火海』という作品で見事に時代に拮抗して、当時の共同性を見事に捉えて、運動の論理を越えた地点に行き着いた。そして、方向性をもう一回仕切り直す時期を迎えたのだろうと思っています。ちょっとべらべら喋りましたけど、時間になりましたので。どうもすみません。ご清聴ありがとうございました。