アテネ・フランセ文化センター

講演「特集 現代日本映画 2002-2004」

2005年3月29日

上島春彦(映画批評家)

上島と申します。よろしくお願いいたします。私は昔「イメージフォーラム」という雑誌にジャック・ベッケルの『穴』について長い文章を書いたことがあるんですけれども、『穴』をはじめて観たのはここ、アテネ・フランセ文化センターなんですね。『穴』を含む何本かの作品を上映したジャック・ベッケルの特集がここであって、そのときに色んな作品を観て、その文章を書きました。『穴』を論じるにあたって私が注目したのは、ベッケルの鏡の使い方です。鏡の機能とカメラの機能を、ベッケルは意図的に混乱させる。カメラを鏡のように扱い、鏡をカメラのように扱う。その方法論を極限まで押し進めたのが『穴』であったというわけです。その文章は私の「モアレ」という本に収められています。「鏡の詐術」というタイトルです。

鏡の詐術という点では、ベッケルの初期作品『エドワールとキャロリーヌ』は正に典型的です。カメラが鏡を偽装することで物語がはじまる。映画のはじまりの方で、とても派手やかな格好をした女主人公のキャロリーヌがカメラを見る。どうしてカメラの方を見るのかと言うと、それはつまりカメラではなくて鏡だからです。カメラと鏡を混乱させる方法論をベッケルはこの頃からやっていて、『穴』という遺作になってしまった作品でそれを突き詰めている。どうしてここでベッケルのそういう話をするのかと言いますと、先ほどご覧いただいた篠崎誠監督の『留守番ビデオ 新版』が、留守番ビデオの画面とそれを観ている女主人公を撮った画面とを交互に映し出しながら進行していく、そういう映画だからです。この後の上映でご覧になる方もいると思いますので、これ以上は申し上げませんが、優れた映画監督の一つのタイプとして、カメラの機能を意図的に混乱させていく人がいるんだと思います。

この『留守番ビデオ 新版』には、1989年に制作された旧版『留守番ビデオ』というオリジナルがあって、それは『留守番ビデオ 新版』よりずっと低予算で、さらにシンプルな作りになっています。作品としては『留守番ビデオ 新版』の方がずっと洗練されています。ただ、旧版の方が優れているところが一つだけあります。どこかと言いますと、それは部屋が非常に暗いところです。ちょっと変じゃないかと思うぐらい部屋が暗いんですね。『留守番ビデオ 新版』の方は、さすがにプロになって以降の仕事ということもあって、部屋はそれほど暗くありません。それほど暗くはありませんが、「あれ、この部屋、照明がつかないや」という描写が物語の最初の方にあって、つまり部屋のなかはやっぱり暗い設定なんですね。この部屋が暗い、暗い部屋というのは、実は、篠崎誠監督のオブセッションと言うか、篠崎監督の作品のキーワードの一つです。『おかえり』という作品があります。それから『忘れられぬ人々』という作品があります。この二つの作品は明らかに部屋のなかが暗い。部屋が暗いというのが、各作品に共通するキーワードになっている。ただ、『犬と歩けば チロリとタムラ』はどういうわけか部屋はあまり暗くないんですね。でも、あまり暗くはないんだけど、引きこもりの少女の部屋というのが出てきます。考えてみれば、心理的にはその部屋は非常に暗いわけです。ここでは、篠崎誠監督の暗い部屋というオブセッションが、心理的により分かりやすい形で表れているのかもしれない。そんな風に思いました。

ここからは、この後で上映される『留守番ビデオ 新版』と『犬と歩けば チロリとタムラ』の話はしないつもりでいます。『おかえり』、それから『忘れられぬ人々』という二本の作品についてお話ができればと思っています。『おかえり』は公開当時、非常に注目を集めたわけですが、古谷伸というカメラマンが撮影をしていたこともその理由の一つではないかと思います。古谷伸と聞いておっと思う方はですね、やはりそれなりの日本映画のファンであると言えると思いますね。古谷伸とは、山下耕作の『関の弥太ッペ』を撮ったカメラマンです。そして、加藤泰の『沓掛時次郎 遊侠一匹』を撮ったカメラマンでもあります。加藤泰で言えば、『怪談 お岩の亡霊』もそうですね。他にも色々と撮っています。この方は東映の企業内のカメラマンですから、定年退職されるまでずっと東映の作品を撮っていた。退職後、篠崎誠監督にひっぱり出されて『おかえり』を撮った。そういうことだろうと思います。詳しい事情は知らないのですが。

日本映画のファンで古谷伸をご存知の方は、誰もがそのローアングルを思い浮かべるだろうと思います。加藤泰の『沓掛時次郎 遊侠一匹』は当然ローアングルの作品として記憶されているでしょうが、『関の弥太ッペ』にも極端なローアングルを使っているシーンがあります。やはりラストシーンが一番有名でしょう。中村錦之助が自分の死を賭けて出入りに出かけて行く、と言いますか、明らかに死ぬために出かけて行くシーンですね。そのシーンに至るまでに、中村錦之助は色々な人々の死を体験しています。妹の死、それから弟分にあたる人間を自らの手で殺している。そして、自分が大事に思っている女の子の父親も殺している。アクシデンタルではありますけれども、殺さざるをえなかった幾つかの死を体験しています。そして最後に、今度は自分が死ぬ番だと覚悟して最後の出入り、決闘に出かけて行く。ワンシーン・ワンショットで撮影されていて、実際はそれほど長くはないのですけれども、心理的には非常に長く感じられるシーンになっています。それが極端なローアングルで撮られている。古谷伸はローアングルについて、あれは要するに舞台的なショットなんだと言っているそうです。舞台的というのは、舞台の全景を撮るということではなくて、舞台を観ているお客さんが舞台上の登場人物を仰ぎ見る感じをそう言っています。

さて、『おかえり』にはローアングルを強く意識せざるをえないシーンがあります。『おかえり』という作品は、タイトルからも分かるように、「おかえり」「ただいま」という二つの言葉だけで出来ているような映画です。当然、その物語には起承転結があるんですけれども、「おかえり」と「ただいま」というこの二つの言葉だけで男と女のドラマが作れないだろうか、そういうコンセプトで作った映画に違いないと私には思えるわけです。一組の夫婦が主人公なんですが、妻の方はずっと家にいて部屋に閉じこもって翻訳の仕事をしている。夫は塾の先生なので、毎日外に出かけて行って、それから家に帰ってくる。家にいるのは妻の方ですから、彼女が「おかえり」を言う。そして、夫が「ただいま」を言う。篠崎誠監督が考えたのは、それだったなら、夫が「おかえり」を言い、妻の方が「ただいま」を言う、そういう局面を作ることはできないだろうかということですね。奥さんはある日、気が狂ってしまいます。気が狂ってしまって、見回りと称して外出するようになるわけです。旦那さんは最初、奥さんがどうして外をうろついているのか分からない。何か用があるんだろうぐらいに思っているんですけれども、そのうちに奥さんが気が狂っていることに気づく。なぜ外に行くのかと奥さんを問いつめますと、見回りに行かなくちゃいけない、見回りが私に課せられた仕事なんだ、と奥さんは答えるわけですね。そんなこともあって、旦那さんは奥さんがちょっと変であることに気づくわけです。それで、ある日、奥さんが見回りに出かけた後、旦那さんが奥さんを尾行して外に出て行くわけですね。尾行ですから奥さんに気がつかれてはいけない。奥さんが家に帰ろうとしたなら、先回りして彼女より先に家に帰っていないといけないわけです。どうして彼女より先に家に帰らなくてはいけないかと言うと、奥さんに対して「おかえり」を言わなくてはいけないからですよ。そのようにして、篠崎誠監督は「おかえり」「ただいま」を言う奥さんと旦那さんの役割をひっくり返しているわけです。ちなみに、今日これから上映される『犬と歩けば チロリとタムラ』でも非常に印象的な場面で「おかえり」「ただいま」という言葉が使われていますので、注意して観ていただけたらと思います。それでですね、『おかえり』の最初の方で、夫が家に帰り着くシーンがあるんですけれども、それが先ほど申し上げました古谷伸ならではのローアングルで撮られています。男の全身が背後から撮られている。男が家に帰り着く、到着するというただそれだけなんですけど、非常に印象的なシーンとなっています。つまり、これが古谷伸マジックなんだろうと思いますね。

ところで、どうして私が「おかえり」「ただいま」という言葉、到着することに注目するかと言いますと、篠崎誠監督が黒沢清監督にインタビューをした「恐怖の映画史」という本がありまして、この本のなかで篠崎監督が黒沢監督に、到着ということがあなたの映画の大事なキーワードなのではないか、と言っているんですね。黒沢監督はまったくその通りと納得されるわけですが、その到着というテーマは篠崎監督の『おかえり』でも全面的に展開されているわけです。篠崎誠監督は黒沢監督のインタビュアーとしてこの「恐怖の映画史」という本に参加しているのですが、実は黒沢作品についてだけでなくて篠崎作品についてのキーワードもこの本には結構出てきます。そういう意味で、黒沢監督ファンのみならず篠崎監督のファンが読んでも楽しめるちょっと面白い本ですね。

この「恐怖の映画史」で語られているのは主にホラー映画の話ですが、『留守番ビデオ 新版』なり旧版『留守番ビデオ』なり、あるいは『おかえり』といった作品のベースになっているのはホラー映画のセンスですね。はじめに申し上げた篠崎作品の部屋が暗いということは、そのようなセンスと関係がある気がして仕方ありません。やっぱり部屋のなかが暗いということはホラー映画の呼吸なんだろうと思います。余談ですが、昨今、隆盛を極めている日本のホラー映画の物語の語り口の多くは、アメリカでフォーフロアと呼ばれるものですね。フォーフロアのフォーフは FOAF でして、Friend of a Friend の略です。ロアは lore ですね。フォーフロアというのは、友だちの友だちに起こった怖い話という意味です。都市伝説というやつでしょうか。フォークロア=民間伝承をもじって言っています。大ヒットした『呪怨』シリーズ、それから『本当にあった怖い話』とか『怪談新耳袋』とかはこのフォーフロアとして語られるものが多いですね。自分の身に起こった話ではなくて、知ってる? 友だちの友だちにこんなことが起こったんだよ、こんな不思議なことがあったんだよ、という語り口ですね。『呪怨』はまったくその通りでして、例えば、夜の9時と夜の2時になるとなぜかあるアパートの一室の壁からドンドンと音がする、そういうエピソードが語られます。で、オチを申し上げてしまいますと、実はその部屋である人が首吊りをして、首を吊ったときに苦しくて体を揺らして壁にドンドンとぶつかっていた、その音が聞こえていたというわけなんですね。ただ、面白いのはオチと言いつつ、全然オチがついていないところです。どうして夜の9時と夜の2時にだけその音がするのかは結局分からない。これはフォーフロアの特色の一つでして、オチがオチとしてオチきらない。どこか不確かな謎が残るということがあります。

旧版『留守番ビデオ』はここのところ流行している日本のホラー映画のある意味で先駆けと言えるのかもしれません。また、『おかえり』にもホラー映画的なセンスを見ることができます。『おかえり』で女の子がある大事な独白をするシーンがあるんですが、そのとき女の子の顔がほとんど映っていない。暗くてですね。暗くて映っていないんですけれども、目だけが光っているんです。非常に印象的に目だけが光る。ホラー映画のファンでしたら『光る眼』という作品は当然ご覧になっていると思います。これは正しく目だけが光る映画でしたね。そういうホラー映画的なセンスというのは、篠崎誠監督のなかで血肉化されているんだろうと思います。『おかえり』には、ホラー映画として観ることもできる面白さがある。旧版『留守番ビデオ』とはまた異なる野心的なホラーを『おかえり』では試みているんだと私には思えます。

先ほど、山下耕作の『関の弥太ッペ』のラストシーンに通じるような『おかえり』の男の到着シーンについてお話しましたが、古谷伸はもちろん加藤泰のカメラマンでもあります。篠崎誠監督が『おかえり』の撮影を古谷伸に託したのは、当然、加藤泰に対するこだわりもあったからだろうと思います。『おかえり』では、男が女を抱きかかえる非常に印象的なシーンが映画の最後に描かれます。女の子は気が狂っていますから、いつも男の方が大丈夫だよ、大丈夫だよと彼女をなだめているわけですが、ある時、男が心労で倒れてしまう。倒れるのですが、彼女がちゃんと介抱してくれるわけですね。目覚めた男は、彼女が治ったのかと思って、ふっと和みます。けれども、じゃあちょっと行ってくると言って女が外に出て行こうとする。男がどうしたんだよと聞くと、だって見回りじゃないと女は答えるわけです。女は治っていなかったんですね。出て行った女を男が追いかけます。追っかけて行くとある丘に到着します。この丘はこの映画に何度も出てきます。非常に美しく撮られているこの丘を観るだけでもこの映画は価値があると思うのですが、女はこの丘の地面に耳を押し付けて、何か地底の声を聞いている。そして、男が、そんな彼女を受け入れるように、彼女を背後から抱きかかえる。そういうとても美しいシーンが映画の最後の方にあります。私はこのシーンで篠崎誠が加藤泰を継承しているように思います。加藤泰の例えば『瞼の母』、あるいは『日本侠花伝』ですかね。『日本侠花伝』は、男が女を非常に美しく抱きかかえる、あるいは女が男を抱きかかえる、そういう動きで成り立っている映画です。蓮實重彦が『日本侠花伝』について書いた素晴らしい批評がありまして、寝ている人間を別の人間が抱き起こす、そういう動きをうまく撮った映画は非常に少ないとして、『日本侠花伝』の素晴らしさを論じています。この批評にインスパイアされて作ったのが、『おかえり』のこの男が女を抱きかかえるシーンではないかと私には思えます。

『おかえり』には、この男が女を抱きかかえるシーンより前に、やはり男が女を抱きかかえるシーンが出てきます。女の気が狂っていることに気がついて、どうしたらいいんだろうという感じで男が茫然自失するシーンです。男が女を抱きかかえる二つのシーンは、ほとんど同じローアングルの構図で撮られています。男が女を抱きかかえる最初の方のシーンは、加藤泰と言うより、また別の映画監督を継承しているように私には思えます。それは誰かと言いますと、クリント・イーストウッド監督ですね。篠崎誠監督も当然、大ファンだろうと思います。クリント・イーストウッドの公式には初演出作品となっている『恐怖のメロディ』という映画がありまして、主人公のクリント・イーストウッドがジェシカ・ウォルター扮するストーカーの女性に、最後はやっつけるわけですけど、途中までいいようにしてやられるわけですね。そのクリント・イーストウッドがジェシカ・ウォルターに完膚なきまでにやられてしまうシーンとして、二人が一緒にベッドにいるシーンがあります。ジェシカ・ウォルターがこれでこの男は私のものよと安心しきった、安らいだ、そして勝ち誇った表情でクリント・イーストウッドを自分のものにしているシーン。このベッドのシーンと先ほど申し上げた『おかえり』の男が女を抱きかかえる最初の方のシーンが非常に似ているような気が私にはしました。

クリント・イーストウッドは、男が女に敗れ去る、決定的に敗れるというシーンを、『恐怖のメロディ』以後、非常に多くの映画で描いています。最近で言うと、『ミスティック・リバー』という作品で、男のなかの男みたいな役柄のショーン・ペンがとんでもない過ちを犯してしまう。つまり、殺してはいけない人物を殺してしまうというシーンがあります。クリント・イーストウッドの映画に出てくる男は、大抵、取り返しのつかない過ちを犯す。そして、その取り返しのつかない過ちを犯した男を女が慰める。いや、それは慰めると言うよりも、むしろ男が女に決定的に敗れ去った証し、女に首根っこを抑えられた瞬間だと解釈することができると思います。『ミスティック・リバー』は正しくそうであった。『恐怖のメロディ』のベッドのシーンもそうです。『恐怖のメロディ』の女は最後にやっつけられてしまいますけれども、この映画でもっとも印象に残るのはやはりクリント・イーストウッドが女に決定的に敗れ去るベッドのシーン、フロイト流に言えば去勢されるシーンだと思います。

先ほどから申し上げています通り、篠崎誠監督の『おかえり』には男が女を抱きかかえるシーンが二回あります。最初の方のシーンはクリント・イーストウッドを継承し、次のラスト近くのシーンは加藤泰を継承しているように私には思えます。とすると、篠崎誠監督はこの『おかえり』という作品で、男が女を抱きかかえる二つのシーンを通じて、クリント・イーストウッドを加藤泰的に変換するということをやっているのだろうと思えます。そうなんですかと篠崎監督に尋ねたら否定されるかもしれませんが、映画監督が考えている以上のことを言ってしまうというのが批評家に残された唯一の特権ですので、この場を借りて勝手にこういうことを言ってしまいます。

さて、『忘れられぬ人々』という作品を観ていただくと、篠崎作品における加藤泰的な主題というものをもう一つ挙げることができます。加藤泰は、許せない何かがある、その許せない何かを自分のなかでどう処理していくのか、それが自分の映画なんだという言い方をしたことがあります。『忘れられぬ人々』というのは正にそういう映画です。青木富夫さんという俳優がですね、風見章子という女優が扮する老女と純愛を貫くわけですが、この純愛を踏みにじる奴らがいる。青木富夫と風見章子の純愛を踏みにじる奴らを許すわけにはいかない。これが『忘れられぬ人々』という映画のもっとも大きなテーマです。この正しく加藤泰的なテーマを見逃すと、最後の切り込みのシーンはどう考えても唐突じゃないかということになる。あるいは、唐突だけどこれは加藤泰をはじめとする東映の任侠映画に対する篠崎誠のこだわりなんだと理屈で納得することになるわけで、それはまあその通りなんですけど、そう上辺だけで観てしまってはつまらない。どうして彼らが日本刀を抱えて突撃をしたのかと言うと、それはつまり青木富夫と風見章子の純愛を踏みにじった奴らを許すわけにはいかないからです。そのことを見誤らないようにしていただきたいと思います。

この『忘れられぬ人々』では、ハーモニカを手渡していくことが物語の大事な筋のひとつになっています。ハーモニカで吹かれる曲がなぜか黒人霊歌なんですね。「Swing Low, Sweet Chariot」という非常に有名な黒人霊歌です。エリック・クラプトンとかがカバーしているので、ああ、あれね、と思う方もいると思います。この映画では、不思議なことに第二次大戦中に「Swing Low, Sweet Chariot」がハーモニカで吹かれています。どうして第二次大戦中に黒人霊歌を、と思ったのですが、昨日調べてみましたらば、「Swing Low, Sweet Chariot」はドヴォルザークの「新世界」でそのまま引用されているようです。ですから、当時、戦争に行った若者がクラシック音楽のファンで「Swing Low, Sweet Chariot」を覚えていることも十分ありうるわけですね。その「Swing Low, Sweet Chariot」をハーモニカで吹く青年は朝鮮人です。映画のなかで直接そう名指されるわけではないですが、言葉の使い方、名字から朝鮮人であることが分かる。そして、一番最後にこの「Swing Low, Sweet Chariot」を吹くのが黒人の子どもです。「Swing Low, Sweet Chariot」が差別的な、抑圧的ななかで吹き鳴らされていく、継承されていく、そういう作品であることを知っておいていただくのは無意味なことではないだろうと思います。

最後に一つだけ、『忘れられぬ人々』における大変面白い試みを指摘しておきたいと思います。ある男が月を見る。月が映る。月を映したショットですね。月から別の人間のショットに変わる。そのとき同じ月を別の場所で二人の人間が見ていたんだという編集です。非常に高度な編集だと思うのですけれども、これに似た繋ぎ方をセルゲイ・パラジャーノフが『火の馬』という作品で星をモチーフにして行っています。篠崎誠監督がここで『火の馬』を引用したのかどうかは何とも言えませんが、同じようなことを試みているわけですね。それで、もう一つ申し上げないといけないのは、『忘れられぬ人々』の後半で、今度は月ではなく雲をモチーフにして同じような編集をしていることです。三橋達也が演じる男が死ぬ間際に空を見上げる。青い空に白い雲が浮かんでいる。次に繋がるのが、男の60数年前の顔です。男が若いときに死の危機に面して、結局そのときは死ななかったんだけれども、俺は死ぬんだという思いがふと頭をよぎった場面、その場面の顔にショットが切り替わる。現在の男、白い雲、60数年前のその男の顔、とショットが切り替わる。先ほどの月の編集の場合は、月を介して別の場所にいる二人の男が関連づけられていたわけですが、今度は、時間を60数年遡るための仕掛けとして雲のショットが挟み込まれている。これは大変面白い編集です。もし『忘れられぬ人々』を見直す機会がありましたら、この二つの編集をぜひ再確認していただきたいと思います。

今日はこの辺で『おかえり』と『忘れられぬ人々』のお話を終えようと思います。『忘れられぬ人々』についてはあまり触れることができませんでしたが、注目ポイントだけは挙げることができたのではないかと思います。今日これから観ていただく『留守番ビデオ 新版』『犬と歩けば チロリとタムラ』という作品は、『おかえり』『忘れられぬ人々』とはまったく違った試みがなされています。もちろん共通する主題というものもある。けれども、まったく別物としてご覧いただいた方が楽しめるかと思います。ですから、私が今日申し上げた『おかえり』『忘れられぬ人々』のお話は頭の隅に追いやってご覧ください。ぜひお楽しみください。どうもありがとうございました。