アテネ・フランセ文化センター

トーク「罪の天使たち」

2009年12月11日

三浦哲哉(映画研究者)

三浦です。よろしくお願いします。『罪の天使たち』についてはパンフレットに色々と書かせていただきましたので、今日は『罪の天使たち』だけでなく、ブレッソン作品の全体像について少しお話させていただきたいと思います。そのテーマなんですが、ずばり核心を突こうと思いまして、ブレッソン作品の官能とサスペンスについて語ろうと思います。では、早速、肩ならしとしてひとつ目の映像を上映していただけますでしょうか。これはブレッソンの作品ではなく、『スリ』に出演したマリカ・グリーンの最近のインタビューです。

(マリカ・グリーンのインタビューの抜粋の上映)

特にゴシップ的な興味から最初にこの映像をお見せしたわけではありませんが、ブレッソンという人は、禁欲的で信仰のために純粋化していく、欲望をいっさい捨て去っていくような修行僧的なイメージが根強いと思うんです。けれども、実際のところ、その人となりはまったく堅物ではなかった。グリフィスもそうだったらしいんですけれども、少女をこよなく愛した。そして、撮影の際は、俳優たちをロボットのように撮ったなんて話が流布しているんですけれども、そんなことはなくて、ブレッソンと俳優たちの間には駆け引きを含むさまざまな人間的な交流があったようなんですね。

ブレッソンの映画には禁欲的なイメージがある。それはそれで間違いではないと思うんです。役者たちは無表情を貫く、台詞も棒読みである、劇的なストーリーテリングも退けられる、と消極的な要素をあげていったら切りがないんですけれども、しかし作品をつぶさに見ていけば、それが禁欲一辺倒であるはずがない。非常にエロティックで、感覚的な刺激のオンパレードと言ってもよい巧妙なサスペンスの作り手としてのブレッソン像がまた浮かび上がってくるはずです。禁欲的なブレッソンと官能とサスペンスに傾斜するブレッソン。その二面性、そしてその両面の関係がどのようなものか、今日はクリップをお見せしながらお話させていただきたいと思います。というわけで、次の映像の上映をお願いします。

(『バルタザールどこへ行く』の抜粋の上映)

ふたりのやりとりが、ブレッソンのトレードマークとも言える手のクローズアップで徹底して断片的に捉えられている。ショットがちぐはぐと言ってもよい繋がり方をしていて、特に肩のあたりのジョイントがどうなっているのかがよく分かりません。起きている出来事と表現方法に落差、ギャップがあって異様な緊張感がある場面です。男の子と女の子の愛の語らい、それだけなんですけどね。ブレッソンは現代の乱れた若者を揶揄しているなんて穿った見方をする人もいるかもしれませんが、逆にブレッソンは若者たちを積極的に面白がりながら肯定的かつエロティックに描いたんじゃないかと僕は強く思います。こういう風に手を伸ばしているわけで、それをアクションが繋がるように撮ることは造作ないはずなんですけれども、敢えて顔と手を別々に切り離して映し出す。それが齟齬を孕みながら接続される。つまり、無表情の顔と接触する手ですね。そのふたつのイメージが一致しないことで、何度見ても軽い衝撃を覚えるような緊張感が生まれているんだと思います。では、同じように男女が愛を語り合う場面をもうひとつお見せしたいと思います。

(『白夜』の抜粋の上映)

これもふたりが愛を語らう場面で、普通に撮ればなんてことないシーンなんですけれども、敢えて顔と手を別個に映す。下では手を触れ合っているはずなのに、顔はしらっとしているんですね。顔のショットの素っ気なさと手のショットのエロティックな接触が、ご覧いただいてお分かりのように、補完的に作用している。ふたつのショットが結びつくことで、エロティックな情動があの無表情な表情に充填される。それをほとんどコミックすれすれの感じで徹底して繰り返している。そう言えるだろうと思います。では、次のクリップをお願いします。

(『スリ』の抜粋の上映)

1959年の『スリ』という映画です。これもやっぱり肩がおかしいんですね。手のショットとバストサイズのショットに明らかに齟齬がある。肩の部分がどうなっているのかが分からないわけです。禁じられた対象を手で触りにいくという点で、男女の性愛とは違いますが、やっぱり極めてエロティックな感触のシークエンスです。『スリ』とその前に撮った『抵抗』、その前の『田舎司祭の日記』、さらにその前の『ブローニュの森の貴婦人たち』、そのすべてに共通しているのが、秘密行動とでも言うか、主人公が人目をはばかって何かをするという設定なんですね。今、見ていただいた『スリ』のシークエンスでは、皆、もちろん無表情、ポーカーフェイスを決め込んでいるわけなんですけれども、それがシナリオの設定によって正当化されている点は見逃してはいけないポイントだと思います。ブレッソンの映画の登場人物は常にこっそり行動する、見られてはいけない行動をしている、したがって無表情であるということなんですね。

(『バルタザールどこへ行く』の抜粋の上映)

これも隠れて行動する人々の動きを断片的に捉えて、それを掛け合わせていくところから緊張感が生まれています。何が起きているのか咄嗟には分からなくて、最後に漸く意味が分かるんですね。警察がアルノルドという男に何か良い知らせをもってくる。それを聞きつけた村の不良少年が、警察を先回りして、アルノルドにピストルを持たせて、あわよくば事故が起こるんじゃないかという罠を仕掛ける。ストーリーテリングとしてはほとんど無意味な無償の場面と言うか、ただ警察がアルノルドに情報を伝えればそれで済んでしまう場面なんですが、ブレッソンはこういう風にサスペンスとして構成しないと気が済まないんですね。ブレッソンがたまたま珍しくサスペンスを演出した場面を今日抜粋したというわけではなくて、ブレッソンの映画のほとんどの場面がこのようなサスペンスで構成されていると僕は思います。サスペンス、具体的に言えば罠、あるいは待ち伏せと言ってもよいですけれども、今日、お見せした場面もその多くが待ち伏せ、罠のメカニズムによって作られています。最初にお見せしたアンヌ・ヴィアゼムスキーが誘惑された場面もジェラールが寝転んで待っているわけですね。バルタザールを餌にして。そして、観客もまた、最初はそれがどのような罠であるか分からない。断片的なイメージを見ているうちに、だんだんそれが何の罠であるか分かってくる。つまり、観客もブレッソンの映画という罠にかかっていると言えるかもしれません。罠とはそれにかかるまで気がつかないもので、ブレッソンの罠もそういうものだと思います。別の言い方をすると、自分の足跡を消しつつ語るようなストーリーテリングである。ブレッソンはこのような極めて巧みな構成を作ろうとした人ではないかと思います。

以上が今日のお話のすべてです。これからご覧いただく『罪の天使たち』はブレッソンの長編第一作ですが、今日、お見せしたシークエンスに込められているような官能とサスペンスをきっと感じとっていただけるだろうと思います。上映をごゆっくりお楽しみください。