アテネ・フランセ文化センター

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講演「特集上映 現代日本映画 2002-2004」

2005年3月24日

上野昂志(映画批評家)

今、ここにいらっしゃる皆さんは瀬々敬久監督の『DOG STAR ドッグ・スター』をすでにご覧になっているか、あるいはこの講演の後でご覧になるのかもしれませんが、私はこの作品の予告編を最初に見たとき、「え、瀬々がこういう映画を撮るの?」と非常に驚き、「大丈夫かなあ」と思ったんですね。でも、本編を見たら、それなりに納得しました。人間になった犬の話という童話みたいな物語をどうやって撮るのか不安だったんですけどね。

瀬々監督がピンク映画で商業映画監督になるのが1989年。北野武が第一作『その男、凶暴につき』を撮ったり、阪本順治が『どついたるねん』でデビューしたり、90年代以降に活躍する監督たちがどっと現れたのがこの年です。今では遠い昔ですが、1989年は「昭和64年」が一週間だけあって、その後は「平成」になるという年でした。その前年の昭和63年の秋、冬は本当に憂鬱で、昭和天皇の健康が思わしくなかったために、何事も自粛ムード。そのために差し替えられたCMもあったりして、一体この国はどうなっているんだ、なんて思っていました。年が明けて、昭和天皇が亡くなり、解放された気がした。そんなことを思い出します。天皇が亡くなった日のことで覚えているのは、有楽町に映画を見に行ったら、バスに半旗が掲げてあったことです。それが何を意味するのかすぐには分からなかったのですが、しばらくして気づいた。映画館は混んでいました。街も人が多かった。号外が配られていた。それが瀬々監督がデビューした年のはじめの出来事です。

瀬々監督は後に『雷魚』という映画を作ります。その冒頭に「昭和六十三年 春 三月」と字幕が映し出されます。93年に、あるOLが元不倫相手の男の団地の家に放火し、男のふたりの子どもが死んでしまう事件があった。88年には、札幌テレクラ殺人事件と呼ばれる、女性がテレクラで知り合った行きずりの男性を殺害する事件が起きた。『雷魚』はこのふたつの事件にヒントを得て、作られています。シナリオは瀬々監督と井土紀州さんです。この実際の事件の人物たちは、88年や89年、昭和63年、64年をどう思っていたのだろうか、と瀬々監督は何かに書いていました。

瀬々監督はピンク映画をたくさん撮っています。まだ見ていない作品もありますが、デビュー作の『課外授業 暴行』、二作目の『獣欲魔 乱行』の頃からすでに風景の撮り方が印象的でした。『課外授業 暴行』は羽田の外側と言いますか、運河の風景が本当に見事です。『獣欲魔 乱行』はロード・ムービーで、東京から浜松、京都へと移動する。高速道路や、浜松の方の海辺や廃墟、それらの風景をまた見事に切り取っている。京都でも観光PR的でない撮り方をしていて、なるほどと思わせる。風景にこだわるとはどういうことか。また、それはどのような意味をもっているのか。それはもう少し後で考えたいと思います。

この『DOG STAR ドッグ・スター』では、人になった犬の豊川悦司が飼い主を探すんです。飼い主だった井川遥は、飛行機事故で家族を亡くす。そんな豊川悦司と井川遥が再会するのが鹿島という場所ですね。ふたりの背景に鹿島の工場がロングで映っている。あるいは、井川遥が畑の一本道を自転車で走るシーン。そのときの畑を捉えた画面全体の広がり、奥行き。おとぎ話のような物語でも、そういった描写は以前の瀬々監督の映画と変わっていなくて嬉しかったですね。また、彼は最近、MXテレビのドキュメンタリー番組の撮影で『課外授業 暴行』の舞台となった羽田の運河辺りを再び訪ねている。面白い番組でしたが、風景の撮り方は、フィクションである『課外授業 暴行』の方が切れ味が良いように思います。

風景ということで申し上げますと、ご存知の方もいるかと思いますが、70年代のはじめに「風景論」というのが流行った。流行ったと言うか、ある人たちの間で問題になった。「風景が問題なんだ」とマニフェスト的に言ったのは映画評論家の松田政男さんです。「風景が状況を乗っ取った」と松田さんらしい断言命題を提示した。そんな松田さんの言葉に刺激を受けて、いろんな人たちが風景を考えはじめた。中平卓馬がその頃に撮っていた一連の写真がそうでしょうし、当時は絵を描くより批評や運動の方に力を入れていた彦坂尚嘉さんも風景を問題にする。近代絵画において風景がどう現れたかとか、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」などの戦争画を論じる。映画だと、戦闘が終わった後の上海の風景を延々と撮った亀井文夫の『支那事変後方記録・上海』が改めて注目を集めた。

志賀重昂という地理学者、評論家による「日本風景論」が登場して大ベストセラーになるのが日清戦争の起こった年、1894年、明治27年なんです。西欧的な近代化を目指した明治の日本が起こした最初の対外戦争の時ですね。志賀の風景論は、まさにそのとき、日本とはどういう国か、ということを、近代的な用語を使って捉え直そうとする。ナショナリズムの発祥ですね。文学のほうでも、自然主義というのは、風景描写とともにあった。風景という問題には、そのような歴史がある。それに対して、70年代初頭の風景論は、個としてわれわれが、均一化された風景によって囲繞されている。そこに、どんな切れ目を入れるか、どのように風景を揺るがすことができるか、という反権力的な立場から論じられたのです。しかし、やがてそこに含まれる政治、権力、ナショナリズムへの問いが希薄になって、80年代の都市論に変質していく。その後に懐古的な江戸ブームが来る。瀬々監督は1960年生まれですから、風景論を読み込んでいたかは分かりませんが、知っていたのかもしれませんね。後年、映画を作る際に風景にこだわっていく。もちろん、それは状況的な問題意識によるというよりは、たぶんに彼の資質によるものだろうと思います。風景とは、瀬々敬久監督の特徴、個性なんですね。

それともうひとつ、現実の事件を物語に積極的に取り込んでいくのが、瀬々敬久の作風である。第一作目の『課外授業 暴行』にしても、ある事件を起こした女性がかつて羽田で水上生活をしていた、という新聞の小さな記事をヒントにしたらしい。たんに物語のネタにするのではなく、ある事件、犯罪に至るまでの過程を物語としてもう一回生き直す。そういうことをやっているように思います。

『未亡人 喪服の悶え』には、農民一揆のモチーフがある。映画の前半は山間の農村が舞台で、またこの風景がよい。後半は東京で国会や皇居が撮られている。明治の農民一揆と現代の環境破や汚職に対する反発が時空を超えて融合する。この頃の瀬々作品は革命伝説のようなものをロマンティックに取り込んでいた気がします。97年に『KOKKURI・こっくりさん』、『雷魚』、98年に『汚れた女』という作品を撮るのですが、その頃は革命ロマンから犯罪事件における人間を捉えた物語に重心が移行したように見える。犯罪事件があるとそれが報道されます。動機や背景が簡単に説明され、事件が紹介される。瀬々監督はそれらを日常に引き戻して、事件を物語として辿り直すような作品を撮っている。

物語自体は事件ごとに異なりますが、物語の構造、論理は一貫したところがあります。たとえば、初期のピンク映画作品は集団劇的な物語が多くて、ふたつのグループが対立していたりする。そして、こっち側のグループだった奴があっちへ行くとか、そういう移行が多く見られる。瀬々作品は瀬々監督自身がシナリオを書いたり、井土紀州と共同で書いたり、あるいは他の人がシナリオを書いていたりしていて様々なのですが、そういう移行の要素は一貫しているように思います。

『DOG STAR ドッグ・スター』では、犬が人間になっちゃう。それ自体は特に驚くような話ではない。おとぎ話のパターンで、「元犬」という落語もある。『DOG STAR ドッグ・スター』の場合、元ボクサーで目を悪くした石橋凌が盲導犬を連れている。彼は酔っぱらって、車にはねられて死ぬ。主人を亡くした犬の前に、幽霊になったと言うか、死後の石橋凌が現れて、その盲導犬は人間になる。かつて犬だった青年が豊川悦司、彼が会いに行く最初の飼い主が井川遥です。死んだにもかかわらず時々姿を現してふたりを見守る石橋凌の役割が、次第に泉谷しげるが演じる移動動物園の園長に移っていく。けれども、この泉谷もあっさり死んでしまって、幽霊がふたりになる。この映画では、登場人物たちが対立や葛藤を起こすのではなく、むしろ移行、転移していく感じがします。

瀬々監督の近作に『ユダ』という作品があって、去年、「映画芸術」という映画雑誌のベストテンでなぜか一位になった。私は批判したい点がいくつかあるんですが、それは後で申し上げます。「ユダ」と呼ばれる性同一性障害の若者がいて、そして、映像制作を生業とする「私」という男がいる。彼のヴィデオカメラを持ち逃げして、ユダは行方をくらます。ある日、ユダと行動を共にしていたと語る謎の女が姿を現す。ある女を探すユダの旅に同行したと言う。ここにおいて、「私」とユダとその女性の三人の関係に、先ほど申し上げたような、移行、転移が起きるわけです。「私」の前からユダが姿を消すと、その空白を埋めるようにその謎の女が現れる。また、ユダとその女が旅の途中に出会う脳に障害がある少年がいて、これまた三人の関係である。瀬々監督の映画の三者の関係とは、存在、役割が一方から他方へと移っていく関係ではないだろうか。

昨年の暮れから吉田喜重のDVD全集の解説を書いていまして、彼の作品を見直していました。吉田喜重の映画にも三者の関係というのが常にある。デビュー作の『ろくでなし』から三人ぐらいの登場人物の関係が映画の中心に描かれていて、その三者の関係に葛藤や対立が生じることからドラマが生まれてくる。面白いけどしんどいところもある『樹氷のよろめき』。これなんかもう典型的で、岡田茉莉子を挟んで、木村功と蜷川幸雄が三角関係になるんですね。たんにひとりの女をめぐるふたりの男の対立だけでなく、三人が反発しあったり、葛藤しながらも、どうしてもその「三の関係」から逃れられない。それが吉田喜重の映画です。けれども、瀬々監督の映画では、登場人物たちが対立し、葛藤しつつも、一方が他方に移ってしまう。彼の映画の人物たちはそういう在り方をしているのではないか。

一見、対立していながら、その実、互いに入れ替わってしまう登場人物たち。その構造は、目下のところの代表作とも言える傑作『汚れた女』にも見ることができます。夫も子どももいる女性が主人公です。彼女は美容室で働いていて、そこの美容師と浮気をしている。美容室にはパートの女性がもうひとりいる。そのパートの女性と美容師が関係を持ったと思った主人公は、彼女を殺してしまう。そして、その死体をバラバラにして、あちこちのゴミ箱に捨てる。殺された女性にはタクシー運転手の夫がいて、女房を探しに来る。主人公は彼を騙して、ふたりで東北の温泉地に行く。この辺りはまさにロード・ムービーです。このタクシー運転手は、実は女房の浮気を疑っていて、温泉宿に来たのは彼女を殺すためだと告白する。しかし、そうは言っても、女房を実際に殺した主人公は、彼にとって仇でもあるだろう。その彼と主人公がまるで夫婦のように一緒に過ごす、旅をするという奇妙さ。殺した者、殺された者が別の人物に入れ替わったような、そういう転移が瀬々監督の映画に貫かれているように見える。吉田喜重の映画のように三角関係によって人物たちの他者性があらわになっていくのではなく、瀬々監督の映画では関係性の転移が行われることで人物たちが重なっていく。そして、風景だけが他者として存在する。そういうことですね。風景を見る人は、同時に風景から見返されている。人と風景は決して一体になれない、重なることができない。そういう関係なのだろうと思います。

『ユダ』という作品に対して若干批判的だと申し上げましたが、その理由は長過ぎる、もっと編集でちゃんと切ってほしいということです。これはDVで撮られた作品です。「映画番長」というユーロスペース製作のシリーズ企画で、瀬々監督が映画美学校の何人かの学生に監督をさせて、本人も『ユダ』を監督した。この「映画番長」のチラシに、瀬々監督は「ぼくたちはアルジャジーラを目指す」と書いている。日本映画は億単位の金が動く作品と、ヴィデオで撮影された予算一千万以下の作品に二極化、分離していて、ならば、われわれはゲリラ的なやり方で映画を観客に届けるほかないんじゃないか、と瀬々監督は書いています。なるほどと思わされる意見です。ただ、それとは別に、『ユダ』にはDVで撮影されたがための欠点があるような気がする。一度に長時間撮影できるのがヴィデオの長所ですが、フィルムだったら撮らなかったはずのものがたくさん映像に映っていて、それを切れずに残したように思うんです。

瀬々監督の映画はワン・ショットが割合長いように思える。相米慎二のように突出した長回しではないけれども、ワン・ショットを充実させ、芝居や出来事を長く見せたいという感じがある。そういうタイプの監督たちにとって、DVで撮影する際、どこで切るかというのはやはり重要なポイントになってくるはずです。フィルムで撮影する際は、ショットの長さ、数は予算やスケジュールと密接に関係してきますから、無駄、余白は比較的少ない。特に吉田喜重と瀬々監督を比較する理由はないのですが、最近、吉田喜重の映画を集中的に見ていたのでまた吉田さんを例に挙げてしまいますと、ご存知の通り、吉田喜重は松竹の撮影所育ちです。松竹は撮影の条件が特に厳しかったらしく、新人監督が使えるフィルムは完成尺数の1.5倍とかいった制約もあって、そういう条件下で吉田喜重は映画を作っていたわけですね。小津安二郎のような巨匠にもそういう意識があった。小津安二郎と城戸四郎は「黒澤明はずるい」と言っていたらしい。「たくさん撮影して、編集のときに考えて繋いでいるじゃないか」と。吉田喜重はそういう伝統のある松竹という会社で修行してきたわけです。彼ものちに長い映画を撮ります。近年の『鏡の女たち』も長い映画ですけれども、そこに込められているものが実に深い。経済的な効率や簡潔さを経た上での、その長さなんですね。それは、スタジオで強制的な訓練を受けた監督とそうでない世代の監督の映像の違いではないだろうか。瀬々監督もピンク映画の現場で厳しい修行を経てきたのでしょうが、DVの時代になったとき、いくらでも撮影できることに映画作家がどう対処していくのか。その問題が、この『ユダ』にはあらわれているように思います。

もう一点、指摘しておきますと、この『ユダ』では風景が拡散してしまっている感じがする。それは90年代と現在の違いと考えてもよいのかもしれません。とは言え、瀬々監督は瀬々監督であって、かつての作品と共通する映像も撮られていて、それは特にユダとミチが車で移動していく先々で見ることができます。けれども、新宿とか都内では風景からパースペクティヴがなくなっている。それは、『ユダ』という作品のカメラが、極めて主観的に感じられるからかもしれません。われわれは常にカメラの位置から映画を見ているのだけれども、『ユダ』の場合、カメラが誰かの目であるように感じられる。その誰かとは、言ってしまえば、監督の瀬々敬久の目なんでしょうが、しかし、瀬々敬久の主観だけを感じるわけではない。あの映画で「私」と名乗っていた光石研の視線であってもよいし、あるいは彼のカメラを盗んだユダの視線であってもよい。誰とも特定し難い主観が映像から感じられることと、風景にパースペクティヴが失われていることは無関係ではないように思います。風景があちら側にあって、それをこちらから距離をおいて見るのではなく、境目がない。むしろ、それを映画に写し込んでしまった点に、『ユダ』の新しさがあるかもしれません。その、おそらくは無意識的な感覚を瀬々監督はいかに意識化し、作品に反映させていくのか。そのことに非常に興味があります。

私は『ユダ』に全面的な拍手を送るつもりはありませんが、やはり興味深い、関心を持たざるを得ない作品ではあります。瀬々監督はシナハンが好きだそうで、そこで発見した風景を脚本に描き、撮影で極めてシャープに切り取って映画にしてみせた。人物たちの向こう側に、彼らを見返すものとして風景を描いた。時代や状況が変わり、風景そのものが変わると、そこに眼差しを注ぐ瀬々敬久の映画はどう変わっていくのだろうか。『ユダ』の場合は、無意識に撮ってしまった風景をどう作品化しようか実験をしているような気がするんですね。パースペクティヴを失った風景がわれわれにとっていかなる意味をもつのか。その答えは、私にはまだ分かりませんが、とても興味深い問題です。

瀬々監督の映画を見ることで、私はそんなことを考えさせられています。彼の方が歳はだいぶ若いですが同時代の映画作家として、今度どのような作品を作っていくのか、そこで何が示されるのか、とても関心をもっています。私からは以上です。ありがとうございました。