アテネ・フランセ文化センター

講演「西山洋一=洋市映画祭」

2005年8月4日

坂尻昌平(映画批評家)

坂尻と申します。三月に西山さんの映画についてお話をさせていただいたんですけれども、今日はその第二弾ということで、もう一度お話をさせていただくことになりました。前回から三、四ヶ月が経ちまして、今回は前回とネタが被らないことをなるべくお話しようということで、色々と四苦八苦して考えてまいりました。とは言っても、やはり同じ監督についてお話しますので、前回と被るところもあるかと思います。その辺はご了承いただきたいと思います。

三月にお話したときには観ていなかった8ミリ作品を今回の映画祭で多数観ることができましたし、テレビ作品も観ることができました。それから、土曜日に初上映となります『INAZUMA 稲妻』という最新作も、また整音されていないヴァージョンではありますが、観させていただいております。ということで、西山さんの全体像が随分見えてきた感じがあります。しかしながら、西山さんの作品を観れば観るほどその全体像が快く崩壊していくというところもありまして、論としてまとめようとすればするほど細部が散乱していくところもあってですね、そういうところも西山さんの映画の不思議な魅力ではないかと思っております。この映画祭のラインナップを見ましても内容は非常にバラエティに富んでいまして、これを総合するような視点を見出そうとすると色んな困難にぶち当たるという感じがいたします。

とは言えですね、西山さんの映画を何度か繰り返し見ていきますと、幾つか共通したテーマとでも言うべきものがあることが分かってまいります。前回のお話で私が申し上げたことをここでちょっと簡単に振り返りますと、私が切り口として見出したのは「方法としての駄洒落」でした。西山さんの映画を観ていると、駄洒落が組織的に使われている場面に幾度か出会うんですね。それが笑えるかと言うと笑えないのかもしれないんですが、笑える、笑えないということ自体はあまり問題ではないと思っています。『稲妻ルーシー』は、ジャンルとしてはコメディだと思いますが、笑えないという評判もあるようですね。もちろん笑える人はたくさんいるんでしょうけれども、笑えない人は徹底的に笑えないようです。それから、私が大変な傑作だと思っております『桶屋』という作品ですけれども、ここでもある意味でしょうもない駄洒落が登場します。『桶屋』も笑えないと言えば笑えないんですね。しかしながら、何か別の次元のことを考えていらっしゃるんじゃないのかなと思っているわけなんです。

この『桶屋』は最初に、誰もが知っている「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺を完全映画化する、という字幕が映し出されるんですけれども、これを本当に真に受けていいのかなと思ってしまうわけですね。ギャグなんだろうか、本気なんだろうか。しかも、その字幕はロシア語と日本語が併記されている。これはどういうことなのか。真面目に考えるべきなのか、ジョークなのか。その思いが宙吊りにされたまま、この映画を観ていくことになります。

今回の映画祭のチラシに寄せた原稿に「桶屋的論理」と書いたんですが、西山さんの映画を解く鍵として、この「桶屋的論理」という切り口が有効かもしれないと思ったわけです。『桶屋』は一編の物語と言うこともできるんですけれども、物語とは普通、人間の心理とか神の意志とか、人間内部の論理なり、神がかり的な超越的な論理なりで支配されているものですね。けれども、それとは違った「桶屋的論理」というものがあるのではないか。西山さんと高橋洋さんは叙事性という概念をめぐってよく議論されていたようですが、「桶屋的論理」とはその叙事性という概念と重なり合うものではないだろうかと思っています。高橋さんと西山さん、ふたりが語る叙事性はもしかしたら微妙に異なっているのかもしれませんが、ともかく、ある種の物理的な出来事の連鎖とは、人間の心理からも神の意志というものからも離れて、まったく即物的に起きてしまうものである。それを簡潔に言い表すと「風が吹けば桶屋が儲かる」といったある種、身も蓋もない諺になるのではないかと思ったわけです。

『桶屋』は、この種の物理的な連鎖によって成り立っています。風が吹くと砂埃が舞って、多くの人が失明してしまう。そして、盲人になった人たちが食べていくために三味線を習う。芸を身につけるわけです。三味線は猫の皮で作られますので、猫狩りが行われる。すると、猫がいなくなって、天敵であるネズミが異常に増殖する。ネズミが増えるとペストが流行し、ペストが流行るとたくさんの人が亡くなります。その結果、葬儀屋が儲かり、最終的に儲かるのは棺桶を作る桶屋である、という出来事の流れになっております。ところが、これを完全映画化すると言いながら、微妙にはぐらかしていくと言うか、ズラしていくところがあるんですね。最後は桶屋、じゃあ棺桶を作る場面で終わるのかなと思うと、風呂桶を作る職人さんが写って終わる。しかも、一応ここまでは劇映画のスタイルだったのが、ドキュメンタリーになって終わる。二重にズレが生じている。棺桶であるべきものが風呂桶になり、フィクションであるべきものがドキュメンタリーになっている。二重のズレがそこに仕掛けられている。後でも述べますが、西山さんの映画の一筋縄ではいかないズレ、分裂といった戦略が、ここにも表れているように思います。この『桶屋』は、非常に人を食ったものではありますが、実に一分の隙もなく構成された作品です。

さらに、高橋さんも指摘されておりますように、西山さんの映画には山中貞雄的な要素があります。高橋さんは「西山洋一は山中貞雄に近い思想の持主である」とお書きになっていますけれども、西山さんの映画には山中貞雄の映画とどこか共通しているところがある。あるいは、どこかと言うよりは、あからさまに山中貞雄を踏まえたところがあるんですね。それが、このチラシにも書きましたけれども、『桶屋』の矢場の遊びの場面です。山中貞雄と共にマルクス兄弟も西山さんはお好きなようでして、人間的な論理から離れたデタラメさを炸裂させる存在としてマルクス兄弟的なキャラクターを映画に導入したい、という野心をお持ちになっているんだろうと思います。この『桶屋』に、ハーポ・マルクスそっくりの出で立ちをした女性が登場するんですね。アーサー役の今関(現・西山)朱子さんです。西山さんの映画においては、非常に重要な役割を果たしている女優さんだと思います。この方が、女優さんでありながらも、ハーポ・マルクスそっくりの出で立ちで登場する。しかも、山中貞雄の『丹下左膳余話 百萬両の壷』の矢場の場面を巧みに単純化して再現する。矢を放ち、太鼓が鳴るというやつですね。これをひとりでやってしまう。ということで、『桶屋』の上映をお願いできますでしょうか。

(『桶屋』の抜粋の上映)

『桶屋』の非常に素晴らしい矢場の場面ですね。ハーポ・マルクスそっくりの出で立ちをした今関朱子さんが、『丹下左膳余話 百萬両の壷』の矢場の場面をあたかもひとりで再現するようなアクションを喜々として行っている。そこにはまさにハーポ・マルクスの面影があり、同時にこの場面には山中貞雄が喚起される三味線の響きがあります。ということで、本家の『丹下左膳余話 百萬両の壷』をここでちょっとだけ観ていただきたいと思います。お願いします。

(『丹下左膳余話 百萬両の壷』の抜粋の上映)

『丹下左膳余話 百萬両の壷』の前半の方の矢場の場面ですね。『桶屋』と『丹下左膳余話 百萬両の壷』がこの三味線の音で繋がっている。そのことが目の当たりに分かって、とても感動してしまいます。ということで、西山さんの世界には、山中貞雄のそれと何か通底するものがあることを感じるわけです。だからと言って、山中貞雄が生きた1930年代的な世界に対するノスタルジーに耽った、回顧的で後ろ向きな監督ということではまったくありません。西山さんの映画は現代映画的な硬質な形式をもっており、後ろ向きな湿り気といったものはむしろ断ち切られているんですね。にも関わらず、山中貞雄的な何かを感じるところが非常に不思議なところです。

話ががらっと変わるのですが、西山さんの映画は非常に優れた女性映画でもあるということを言っておきたいと思います。『運命人間』で小松みゆきさんが演じている予言者の妻が、主人公のペット探偵を誘惑する場面があります。予言によって私とあなたは関係を結ぶことになっている、と言って迫る。女性の色香と言いますか、誘惑性が全面的に露呈する素晴らしい場面です。ここを観ていただこうと思います。上映をお願いします。

(『運命人間』の抜粋の上映)

公園で人妻とペット探偵が木漏れ日のなかを歩いていく。成瀬巳喜男の映画のような場面ですね。非常にメロドラマ的な場面ですけれども、しかし、運命ですからラブホテルに行きましょう、と女性が男性に迫る。成瀬巳喜男の映画では絶対にありえない大変な状況なんです。成瀬を思わせるような端正な撮り方がなされていて、ロングに引いて横移動しながら、追いかける女性、逃げるペット探偵を捉えていく。それから階段に移動するのですが、ここまではいくらなんでも追いかけてこないだろうと思うと、女がしつこく追いかけてきて、最後に「あなたと私は結ばれる運命なんです」と叫ぶ。女性メロドラマから一気にストーカーもののホラー映画へと転換していく。この辺りのたたみかけ方が見事です。ペット探偵が部屋に戻ってくると、だめ押しをするように、「結ばれてください」「結ばれてください」と同じ言葉が無数に書き連ねられたファックスが送られてくる。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』で、狂気に陥ったジャック・ニコルソンがタイプした無数の「勉強ばかりしていると馬鹿になる」というフレーズの恐怖が思い出されます。それを踏まえているのかは分かりませんけれども、ゾッとしますね。まさかこんな展開をするとは思わないわけです。あの公園の場面からこのファックスに繋がるとは読み難いわけです。西山さんの映画は予想がつかないところがあります。それは西山さんの映画理論である「ワンカット・ワンシーン」にも関係があると思うんです。「ワンシーン・ワンカット」ではなく、「ワンカット・ワンシーン」であるという説ですね。つまり、それはカットの完結性が高いということでもあると思うんです。完結性が高いということは、次のカットの予想がつかないということでもあります。だから、カットが切り替わる一瞬、一瞬に飛躍があって、エピソードがエスカレートしていく感じがあります。カットとカットが弁証法的に意味を生み出していく感じではないんですね。どこか不連続なんだけど、その分、展開がエスカレートしていく、そんなカットの在り方ではないか。今の場面などを観ながら、そんなことを考えてしまいました。

それから、『運命人間』には予言ビデオというものが登場しますので、これも観ていただこうと思います。上映をお願いします。

(『運命人間』の抜粋の上映)

今、観ていただいたのが『運命人間』の予言ビデオです。ペット探偵のもとにビデオレターとして届けられて、ペット探偵はその映像に呪縛されていきます。この予言は本当に自分の運命なんだろうか、と思いはじめるわけですね。西山さんの映画のもうひとつの重要なテーマとして、メディアと記録ということがあると思います。具体的に言いますと、写真とかビデオですね。ビデオで自分を撮るという行為に関しては、『ホームビデオの秘かな愉しみ』と『ホームビデオの厳かな愉しみ』という非常に素晴らしい作品が今回の映画祭で上映されます。この二本は、西山さんの作品を考える上でもっとも重要な作品ではないかとも思っています。ともかく、西山さんの映画では、ビデオが頻繁に登場するんですね。それから写真も多数登場いたします。先ほどご覧いただいた『運命人間』の予言ビデオはビデオレターとして送られてきますが、ビデオテープが送られてくると言えば『ホームビデオの厳かな愉しみ』ですね。余命幾ばくもないと考えたらしい大杉漣が、家族に向けてHi8で遺言ビデオレターを撮る。『ホームビデオの厳かな愉しみ』は、そのビデオレターで全編が構成されています。すでにこの作品にビデオテープを送ってくるというテーマが表れていて、これが『運命人間』でいま一度反復されている。大杉漣がカメラに向かって呟く「私は死ぬんだ。もう後一週間後に死ぬんだ」という言葉も、ひとつの予言として考えることができます。自分の運命を予言して、それをビデオに撮って家族に向けて送ってくる。そういうことですね。ですから、『運命人間』という映画の題名は、まさに西山さんの映画を解くキーワードのひとつにもなりうるものだと思います。つまり、自分が死ぬと思い込んで家族に遺言ビデオを送ってくる大杉漣も一種の運命人間なんですね。本当に死ぬのかどうかは分からない。でも、死ぬと思って遺言ビデオを送る。そういう運命人間なんです。

『完全なる飼育 愛の40日間』という作品があります。今日、この講演の後で上映される作品です。「完全なる飼育」シリーズの一本として作られているということで、西山さんの世界の特徴があまり観られないのではないかと思われているかもしれませんが、実はこの作品にも西山的テーマと言いますか、写真のテーマというものが貫かれています。女子高生が中年男に誘拐されてアパートの一室に監禁されるんですけれども、中年男は彼女のポラロイド写真を撮って、そこに日付と彼女の体重を記入するんですね。人間的なメッセージを書き込むのではなくて、非常に即物的な日付とキログラムといった重さを書き込み、それがポラロイド写真日記のようなものになっていく。このことには注目せざるをえません。「日記はたくまずして叙事性を獲得している」と高橋さんがお書きになっていましたが、この写真日記もまた、この作品に叙事性をもたらしているのだと思います。『完全なる飼育 愛の40日間』で、この監禁は運命なんだ、と中年男が言う場面があります。それから、ポラロイド写真が壁に貼られていく場面もありますので、その辺りをちょっと観ていただきたいと思います。それでは、『完全なる飼育 愛の40日間』の上映をお願いします。

(『完全なる飼育 愛の40日間』の抜粋の上映)

犯人の虫のいい理屈とも言えるんでしょうけれども、ここに監禁されて自分と一緒に暮らしていることは運命だからしょうがないんだよ、とそういうことを中年男が言うわけですね。彼女もそれを運命なのかなと思いはじめます。この男の言う運命は、運命と言うよりも、予言として機能していると思うんですね。言わば、この男は予言者なわけです。その予言をこの少女はだんだん信じていく。写真を見ながら、その予言を信じていくというわけです。それから、テープレコーダーで情事の声が記録されて、その自分の声を聞いた彼女は、この声はいったい誰なんだろうと思います。自分の声が録られていながらも、録られれば録られるほど、アイデンティティが分からなくなっていく、消失していく。こういうことも西山さんの映画では起きるんですね。カセットテープでも写真でもビデオテープでもいいんですけれども、記録されることで自分自身が何だか分からなくなっていく。そういう分裂状態を経験することになるわけです。

撮ることによって自己が分裂していくというテーマがもっとも凝縮された形で表れているのは、『ホームビデオの秘かな愉しみ』だと思います。『ホームビデオの秘かな愉しみ』と『完全なる飼育 愛の40日間』は奇妙に一致するところがあって、『完全なる飼育 愛の40日間』で犯人の男が少女にはさみを持たせて、自らは背中を向いて、刺し殺そうと思えば殺せるチャンスを与えるんですが、彼女はそうしない。そこで、君は運命を受け入れたんだね、ということになるんですが、監禁状態を受け入れる、自分で自分を監禁するという状況があるんですね。『ホームビデオの秘かな愉しみ』では、寝ている間の部屋をビデオカメラで記録し、朝になってビデオを確認してみたら、部屋のなかに別の人が写っている。自分に似ているんだけど、写真を燃やしたり、手紙を燃やしたり、勝手なことをやっている人がいる。それをビデオの画面のなかに見てしまうという体験を描いているんですね。もしかしたら、それは他人ではなくて、自分が夢遊病的に勝手に夜中に活動しているのではないかという疑問をもって、自分をベッドに縛りつけるんですね。と言うことは、つまり自分を監禁状態に置くわけです。自分をベッドに縛りつけ、それでも夜中に人が現れるのかを確認したくて、実験するんですね。では、『ホームビデオの秘かな愉しみ』をちょっと観てみたいと思います。お願いします。

(『ホームビデオの秘かな愉しみ』の抜粋の上映)

今のは作品の冒頭部分で、この作品の助監督をされた青山真治さんのアイデアで撮影された素晴らしい場面ですね。ハンドバッグをベッドに放り投げる。そのハンドバッグの主観ショットです。撮影用のHi8のカメラをベッドに放り投げ、それがベッドに落ちると画面の手前にバッグのチェーンが写る。カメラがベッドに落ちる瞬間に青山さんがカメラの前にあのチェーンをさっと置いて、それでああいう画面が出来あがったそうです。ほんの一瞬ですけれども素晴らしい主観ショットですね。自立した眼としてのカメラということで、この作品のテーマとも関係していますし、先ほどの『運命人間』の予告ビデオでも電信柱にカメラの見た目で激突する場面がありますので、そういうカメラワークにも通じていくショットだと思います。続いて『ホームビデオの秘かな愉しみ』の別の場面も観ていただきます。上映をお願いします。

(『ホームビデオの秘かな愉しみ』の抜粋の上映)

今、観ていただいたのは『ホームビデオの秘かな愉しみ』の終わりのところですけれども、夜中に活動しているらしきもうひとりの自分と直面する場面ですね。非常に巧みなのは、もうひとりの自分がビデオの画面のなかにしか登場しないことです。にも関わらず、枕の下の鍵が奪われ、ビデオ画面のなかではなく、実在の世界の床に放り投げられる。それから、画面のなかで冷蔵庫を開けると、実在の方の冷蔵庫も開いているというように、ビデオの画面内と画面外の関係が非常に巧みに作られています。ビデオ画面の内と外の関係性の構築によってこのホラー作品はできているのですが、画面から幽霊が飛び出してきたりしますと、それはそれで納得するのかもしれませんけれども、この作品ではそうしたことは起こりません。起こらないことで、かえって作品の怖さを増しています。画面の内と外を強く意識させることで、自分ならざるもうひとりの自分という存在の不気味さがより強調されていると思います。

『完全なる飼育 愛の40日間』でも少女は写真を撮られたり、声をテープレコーダーに録られたり、それから、誘拐されたわけですから、写真がコンビニに貼られ、テレビのニュースでも放送されるのですが、彼女は写真やテープに記録された自分に対してこれは本当に自分なんだろうかと疑問をもちます。『ホームビデオの秘かな愉しみ』は、そういった記録による分裂といったテーマをもっとも原理的に示したもので、その延長線上に『完全なる飼育 愛の40日間』のヒロインの分裂があるのかなと思います。『運命人間』でも、ペットを探してくれ、猫を探してくれと言われて写真を提示されるのですが、その写真にはどう見ても犬に見えるものが写っているんですね。猫のラッキーを探してくださいと頼まれるんだけど、その写真はどう見ても犬である。そのズレですね。猫のラッキーは限りなく犬に見える猫であるというその分裂、亀裂を受け入れざるをえない。そこに、西山さんの映画の大きなテーマのひとつがあるのかなと思います。今度上映される新作『INAZUMA 稲妻』でも、テレビ映画で斬り合いの殺陣を演じる男優と女優の日常にそのテレビ映画の映像が紛れ込んできて、その役柄がふたりの実際の関係にも影響を及ぼしていくわけですけれども、演じることと日常とのある種の二重構造が非常に面白く、またちょっとシュールな感じで描かれているんですね。それから、『CH4メタン』の場合ですと、ポラロイド写真ですね。『完全なる飼育 愛の40日間』と同様にポラロイド写真のテーマというのがあって、写真に撮られると生命が奪われるという、写真が運命を決めてしまう事態が描かれています。記録されることによる存在の分裂、二重化といったテーマ、それに運命というものが絡んでくるところが、西山さんの映画の世界の実に不思議な魅力と言えると思います。

最後に、西山さんの映画には、先ほど申しましたように、ショットに完結した力というものがあってですね、特に乗り物の魅力、とりわけ自転車の魅力があるということを挙げておきたいと思います。『痴漢白書8 劇場版II 真冬のキッス』の上映をお願いします。

(『痴漢白書8 劇場版II 真冬のキッス』の抜粋の上映)

『痴漢白書8 劇場版II 真冬のキッス』の後半で、借金で追いつめられた男とその恋人が、二人乗りした自転車で引ったくり強盗をやる場面です。夕暮れ時の長閑な公園で、若い恋人たちが自転車に乗っている。とてもいい場面だなと思っていると、歩いている女性のハンドバッグがまるでドキュメンタリーのような感じでパッと取られる。カットが割られているとありきたりな画面になっちゃうんでしょうけれども、ロングショットで日常の一風景のように引ったくりが描かれていて、そのある種の平凡さに感動してしまうんです。西山さんが仰る「ワンカット・ワンシーン」の理論が見事に表されている画面じゃないかと思って、とても感心いたしました。それでは、そろそろ時間ですので、今日のところはこの辺でお終いにしたいと思います。どうもありがとうございました。