ロバート・ロッセン Robert Rossen


映画監督、脚本家、製作者。1908年、ニューヨーク生まれ。貧困と暴力の中で育ち、ごくわずかの間ではあるが、プロボクサーの経験もある。次第に舞台演出家、脚本家として頭角をあらわし、その作品はブロードウェイで上演されるまでになった。演劇界での一応の成功の後、36年にはワーナーの契約脚本家としてハリウッドに進出。理想家の彼は共産党に入党するが、そうした政治的関心は彼の書く脚本にもあらわれ、社会問題や専制の恐怖などをしばしば題材とした。しかし44年、党に幻滅を感じ、一年間のニューヨークでの充電期間の末、翌年ハリウッドに戻った時には、共産党と決別している。40年代後半に、監督、独立製作者として新たなステップを踏み出し、社会的かつ野心的な映画作家として評判を得、49年には「オール・ザ・キングスメン」でアカデミー作品賞を受賞。しかし、まるで彼の映画の登場人物のように、彼自身も自らの過去に捕らわれることになる。赤狩りが始まったためだ。47年、非米活動委員会の尋問に召喚され、この時は公聴がハリウッド・テンの有罪判決ののち延期されたため、無事に終わるが、51年には再び非米活動委員会で共産党員であるとみなされ、証言台に立たされる。彼は現在は党員ではないと弁明したが、ハリウッドの他の党員の名を言うことを拒否したため、活動停止を余儀なくされた。二年間に及ぶ魂の彷徨の末、彼は委員会に手紙を書き、尋問に応じ、50人以上の同僚の名を報告する。転向後、映画制作を再開するものの、ハリウッドに戻ることは決してなく、自分自身の中にひきこもりがちだったらしい。友人達はそんな彼のことを苦悩に苛まれた人であったと表現している。60年代初頭には「ハスラー」で、失った名声をいくらか取り戻したが、最後の映画「リリス」は、アメリカにおいては批評家の間でも商業的にみても失敗に終わった。68年、フランスの「カイエ・デュ・シネマ」の年間ベストテンで「リリス」が選ばれるのを知る前に、彼はこの世を去った。


過去の上映作品

ジョニー・オクロック Johnny O’Clock 1947
ボディ・アンド・ソウル Body and Soul 1949
怒れる牡牛 The Brave Bulls 1951