「ベルリン・アレクサンダー広場」
時代を超越する作品と作家についての覚書

渋谷哲也(ドイツ映画研究者)

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーという類まれな映画作家の代表作は、オリジナル作ではなく原作小説の忠実な脚色映画である。作家性やオリジナリティという概念がすでに古い時代の産物だという事実をこれほど鮮やかに認識させるものはない。新しい時代において新しい物語は書かれうるのかという問いではなく、すでに書かれた物語が新しい時代のコンテクストでどう語り直されるのかという問いが発せられる。もちろんファスビンダーの映画は過去の小説の単なる再現を試みたものではない。そもそも文学テクストを映像にすることを単純に再現と言えるかどうかも疑わしい。映画は映像と音声そして言語という多様な要素によって構成される。だがそれだけでなく原作テクストはあくまでも映画作家の主観的な読みによって映画に活用される。だから他の読者が違った読み方をするのは当然であるし、ファスビンダーの映画化とは全く違った映画の可能性も当然存在するだろう。ポストモダンの時代において全てのテクストは他のテクストを織り込んだ網目となるが、その網目の構築には紛れもなく個性的な作家のフィルターが介在している。ファスビンダーはポストモダンの手法の中で明確な作家性を主張する。
 一つの作品が特定の時代と結びつきながらも時代を越えてゆくことは名作たるものの特徴だといえる。その視点において小説から映画に変換された『ベルリン・アレクサンダー広場』は両者ともに名作の特徴を備えている極めて興味深い事例だろう。1929年に発表されたアルフレート・デーブリーンの小説は、ナチの台頭する戦間期ドイツの不穏な空気の中のベルリンを記録したドイツ唯一の大都市小説である。ワイマール期のベルリンはまさに時代の過渡期であり、多様な価値観に溢れていた。ドイツ帝政を終わらせた第一次世界大戦の敗戦を経て、議会制民主主義のワイマール共和国が成立し、同時期に起こった共産主義革命はドイツでは頓挫する。インフレと社会不安の中で芸術文化は爛熟の時代を迎え、ヨーロッパという旧世界において他の大都市より遅れて発展したベルリンは、それゆえアメリカ的で自由なメトロポールとなる。だがやがて台頭したナチスは30年代になるとファシズム政権を樹立し、戦争と民族大量虐殺の時代が訪れる。デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』は、そうした歴史的な事件を年代記的に記録するのではなく、大都会に生きる名もなき人々のささやかな目と耳で捉えた物事から多声的な叙事詩を構築する。しかも登場する人々は失業者、犯罪者、娼婦、酒場の客など社会の底辺にたむろする日陰の人々ばかりである。主人公フランツ・ビーバーコップは激動の歴史に居合わせた時代の証言者だが、英雄的な行為とは無縁の人物だ。とはいえ一個人としては十分すぎるほど劇的な人生を送っている。第一次大戦への従軍、共産主義革命への加担、失業、ヒモとなって愛人を撲殺、服役、意図せざる犯罪への加担、右腕切断、友と思った男に恋人を殺され、その殺人容疑を受ける。
 激動の20世紀前半の中間点に位置するこの小説が、発表後50年経った1979年から80年にかけて映画化された。舞台となるアレクサンダー広場は第二次大戦と戦後の東西冷戦下の分断により、もはや当時の面影はない。だが時代の激動はかつてと変わらず続いている。70年代の西ドイツは熱い政治の季節とドイツの秋を体験し、マイノリティの人権運動や移民問題が社会的にクローズアップされていた。ナチ時代の過去との対峙が十分に行われぬまま、過去の記憶は抑圧され続けていた。そこにメディア文化の大きな転換期が訪れる。既存の文化産業の斜陽化とともに新しい大衆メディアとしてテレビが台頭し、大衆文化は新たな局面を迎えた。いわゆる高尚な芸術作品のマーケット化も進み、また社会問題も大衆文化として消費される対象となった。テレビ番組の多様化も進み、アメリカで製作された連続テレビドラマ『ホロコースト』は1978年に世界各地で放映されて大きな話題を呼んだ。とりわけ西ドイツでは、このドラマの放映が自国の暗い過去に改めて目を向けさせるような社会的事件となった。そんな折にドイツでも名作文学による連続テレビ映画の製作が真剣に考慮されるようになったのである。
 『ベルリン・アレクサンダー広場』の映画化は、このテレビ台頭の中で企画され、ファスビンダーがその監督を引き受けることになった。それまでファスビンダーは数々の話題作を発表してはいたが、商業的に成功していたわけではなく、社会でタブー視されるテーマを好んで取り上げるスキャンダルの渦中の監督というイメージが強かった。だが70年代のテレビ局には新しい優れた才能を取り上げようとするリベラルな風潮があり、ファスビンダーという作家がメジャーで活躍できたのはこうした風潮に支えられていた。ゆえに彼がこのような西ドイツ初の大規模な連続テレビ映画も手掛けることになったのである。ファスビンダーは70年代という時代あってこその作家だったといえる。
 アンダーグラウンド演劇の出身で映画も多く自主製作してきた彼は、テレビ局の委嘱作品であっても自身の望むようにシナリオを書き、独自の美学的スタイルを貫いた映像作品を作り上げた。なにより小説『ベルリン・アレクサンダー広場』はファスビンダーが思春期に出会って強烈な影響を受けた生涯の一作だったのだ。こうしてファスビンダー生涯の代表作は全14話15時間の超大作として完成された。だが放映が始まるや否や誹謗中傷キャンペーンとも呼べるような非難の嵐をドイツ国内で呼び起こし、ファスビンダー自身もあまりに手痛い反応に意気消沈したという。結局1980年の初放映以降ドイツ国内でもほとんど再映されず、また15時間というあまりの長尺ゆえに劇場公開も困難だった。もちろん世界各地で特別上映された機会には大きな話題を呼んだのが、あくまでもシネアストの間での出来事であり、一般大衆の間では長らく幻の作品であり続けたといってよい。
 この呪われた超大作が、完成から20余年後の2006年にデジタルリマスター化され、放映時には望めなかったほどの鮮やかな映像と音声でよみがえった。それはファスビンダー受容史に新たな一頁を書き込む画期的な出来事だろう。というのも80年に『ベルリン・アレクサンダー広場』が放映された際、多くの視聴者は画質の悪いテレビ画面で視聴していたからだ。この映画がテレビとしては異例なほどに画面の暗さが強調された事にも理由がある。今回のリマスター版はオリジナル16ミリフィルムから最大限の情報を取り出し、当時は闇に沈んでいた細部の演出を克明に可視化することに成功した。この映画が描き出す様々な社会問題、そして主人公たちの関係性をめぐる謎の全貌が今ようやく鮮明な映像と音声を得た。これはまさに21世紀におけるファスビンダーの新作と呼べるのではないか。今回のリマスター版は、時代を超越したファスビンダーという作家の特性についてさらなる考察を呼び醒ますきっかけとなるだろう。
 そこでこのささやかな論考では、ファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』について、作家自身の言葉に寄り添いつつ、21世紀に向けての視野を獲得したこの作品の原題における意義についても考えてみたい。

 ファスビンダーの映画キャリアを概観すると、ゴダールおよびハリウッドの影響を受けた犯罪映画などを模倣する初期作品から、ダグラス・サークのメロドラマ映画を手本とした大衆的な人間ドラマ製作でメジャーへの脱皮を果たした中期を経て、後半は近代ドイツ史を映画で再構築する試みへと次第に社会的歴史的コンテクストを広げている。その中で一貫しているのは、限定された空間の中において人間同士の関係を展開させるスタイルである。演劇人でもあったファスビンダーは、テクストと役を演じる俳優との距離感を常に意識させる演出を行っている。フィクションのシナリオを俳優たちが演じられると同時に、俳優自身の個性も記録される。フィクションとしてのイリュージョンを拒否し、その作り物としての性質を絶えず意識させるのがファスビンダーの劇映画の特徴である。初期映画に登場するギャングは、ギャングを気取ったドイツの若者たちのリアルな姿であり、ハリウッド・メロドラマの筋書きに着想を得た作品も、アメリカ社会のコピーではなく、アメリカの影響下にある戦後ドイツの肖像に他ならない。文学作品の映画化の場合でも同様で、役柄と俳優との一体化を遮るように様式化された台詞回しや身振り演技が行われ、撮影や照明は場面の人工性を強調する。ファスビンダーは、シナリオや小説のテクストを一つの独立した要素として使用し、そこに俳優、撮影や舞台美術など映画技術などの要素を多層的に積み重ねていく。その結果彼の映画では過去を舞台にした時代劇であっても、時代のリアルな再現を目指すのではなく、そこにファスビンダー個人の嗜好や同時代の要素が反映されることになる。
 ではファスビンダーは『ベルリン・アレクサンダー広場』をどのように読んだのか。この小説はファスビンダー自身の血肉となって彼のオリジナル作品にも強い影響を与えている。彼の作品には数多くのフランツが登場し、その内の数本はフランツ・ビーバーコップと名付けられているほどだ。だが原作が大都市小説であるという側面から考えれば、ファスビンダーの映画は都市の風景をパノラマ的に可視化することなく、室内や路地の閉ざされた空間で人間関係にフォーカスしている。ファスビンダー固有の読みは、この小説のかなり特殊な一側面から導き出されているといわざるを得ない。
 ファスビンダーは34歳にして『ベルリン・アレクサンダー広場』の映画化を実現した際に、この小説についての個人的な想いを綴ったエッセイを発表している。彼はまだ10代の思春期に小説『ベルリン・アレクサンダー広場』を読んで、彼の人生を変えるような強い衝撃を受けたという。ファスビンダーにとってのこの小説本来のテーマはなによりも彼個人の思春期の苦悩に関わっていた。

僕は当時デーブリーンの小説を、もちろん自分自身の問題や問いかけへと短絡し、過剰に単純化して二人の男の物語として読んだ。彼らのこの地上でのささやかな人生は破壊される。というのは彼らがお互いを不思議なあり方で好き合い、愛し合ってさえいて、そこには普通の男たちの間にあるものよりずっと神秘的な絆があるのだが、そのことを認めて肯定するための勇気を奮い起こすことができないからだ。(『映画は頭を』83頁)

さらにファスビンダーはこの二人の男の関係を以下のように定義づける。

フランツとラインホルトの間にあるものは社会的な要因に全く脅かされることのない純粋な愛であって、それ以上でもそれ以下でもない。つまりまさにそういうものだ。だが二人とも(中略)社会的な存在であり、そうである以上は当然だが、その愛を承認することはおろか理解することすらできないのだ。その愛をただ自分に受け入れたなら、人間同士の間であまりにも稀にしか起こらない愛によって豊かで幸せになれるにも拘らず。(『映画は頭を』83頁)

 ここにファスビンダーが全作品を通して描き続ける愛の不可能性の核が示されている。この愛はとりあえず男性二人の関係に示されるが、そこに限定されることなく最後に「人間同士の間」という言い方で、さりげなく普遍化されることも見落とせない。一見すると空想的で非現実的な愛の憧憬を語っているように見えるが、これは現実の社会運動に対する挑発でもある。人間は「社会的な存在」である限り、愛にたどり着くことはできない。ならば社会を変革しようとする運動も同様に社会的な諸要因に動かされ、しかも脅かされているからだ。そこにファスビンダーが社会を徹底して否定的に描く理由がある。
 こうしてファスビンダーの描く社会的なるものの拘束と、そこから外れたところに存在するであろう「愛」の構図は、彼の描くドラマに現実社会への絶望と未来への希望の両極的な力を与えることになる。彼はその人間ドラマを戦後西ドイツという特殊な歴史を持った場所へと意図的に結び付けるようになった。自国の過去に目を向ける時、ファスビンダーは実在の人物や文学作品に依拠し、その歴史的素材に対する彼なりの視点を提示することで歴史と現在を二重写しで提示する。彼にとって「純粋な愛」を阻害する要因は社会における搾取の道具として機能する。身分、資本、性愛、教養、教育、家族、共同体、こうしたものすべてが搾取の道具であり、またそこには愛に近接する感情としての同情、共感、反感なども含まれるだろう。このように愛の関係性に社会的な要因を貼り合わせてゆくのがファスビンダーのドラマ作りの基本的スタンスである。それは時に共同体の理想とその崩壊、近代結婚制度のサドマゾ的関係、ファシズムと独裁者を希求するメンタリティの考察として具体的にドラマ化される。そしてその集大成が『ベルリン・アレクサンダー広場』であり、ここでは国家と歴史と個人の関係を万華鏡のように展開させる。この作品を監督するファスビンダーは、もはや自身の性愛に悩む思春期の少年ではなかった。彼は原作の言葉を忠実に用いながら、20世紀ドイツを15時間のドラマに凝縮したのだった。だがその視点は小説の主人公に徹底して寄り添っている。すなわち社会の底辺でささやかに生きる人間たちの視点である。そこには、強さと弱さ、善良さと悪辣さ、理解と拒絶、干渉と無関心、自尊心と自虐、双方向に振れる価値観の曖昧さに満ち溢れている。この世界の矛盾を知れば絶望せざるを得ない。だが矛盾を知る洞察力を持つ者は多くない。そして無知が不幸も幸せももたらしうるように、絶望は必ずしも破滅を意味するわけではない。絶望を知る者だけにこの世界からの出口が開かれる。それがファスビンダーの世界観である。

 ファスビンダーは映画監督としての自分自身のオブセッションを以下のように語った。

分別ある監督なら誰だってたった一つのテーマしか持たず、いつも同じ映画を作っている。僕の場合、それは感情の搾取の可能性で、誰によって搾取されるかにかかわらずそれが問題になっている。それには終わりがない。いつまでも続くテーマだ。国家が祖国愛を搾取する場合だったり、2人の人間関係で一方が他方を破滅させる場合だったりする。幾らでも新しいパターンで物語ることができる。(中略)だが僕はユートピアへのまなざしを込めて映画を撮ることもできる。ひょっとしていつの日か全ての人間が芸術家である社会が生まれるかもしれないという具合に。それが存在しない間は、人生を耐えやすくするような映画が必要なんだ。僕の映画を見せる必要がなければ一番良かったろうけど。(『アナーキー』179頁)

 『ベルリン・アレクサンダー広場』はこの人間関係における愛と搾取の集大成を試みた作品となっている。そこには2人の男と一人の女、1人の男と2人の女といった三角関係が多重構造で仕組まれており、それらがまるで相補的な鏡像であるかのように対峙している。
 「3」はファスビンダーにとって鍵となる数字である。興味深いことにファスビンダーの映画では、カップルが形成されるとき必ず第三者の視線が介在する。つまり傍観者や守護者がそこに居合わせるのだ(『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』、『自由の代償』、『不安は魂を食いつくす』の前半)。もし2人だけの関係が始まれば、必ず破綻に至る(『マルタ』、『不安は魂を食いつくす』の後半)。他者の視線は社会性の顕在化する契機だが、その作用と反作用が人間の関係性に客観性を与えることになる。他者の目が人間関係の保証となるのだ。
 見られていることで示唆されるアイデンティティの曖昧性の問題は、一見するほど危ういものではない。ファスビンダー映画の登場人物は、実は極めて強い自己意識を持った者ばかりだという点に注目すべきだろう。たとえ虚偽の意識に支配されていたとしても、その意識はブレることがない。アイデンティティの危機を自覚するのは、『悪魔のやから』の詩人ヴァルター・クランツのように、自分自身が空虚な存在であることを知っているからであり、だからといって真のアイデンティティなるものを本気で探してはいないのだ。従ってファスビンダー映画の登場人物は、その存在のあり方に曖昧さがなく、戯画化や尊厳を奪うような描き方も危ういところで回避されている。善人も悪人も無関心な者も等しく個人として作品世界に居場所を与えられる。おそらく全ての人物がファスビンダー自身の鏡像であり、だからこそネグレクトされることはない。悪意を持って主人公の破滅を笑う人物にすら、ファスビンダーは人間らしさを与えている。だから彼の描く世界には、不思議な共同体の調和がある。それが彼の望むユートピア的共同体だと考えるのは短絡的すぎるだろうが、少なくとも彼はそもそも「愛」が存在しない世界を描いたことはなかった。むしろその可能性に賭けながら、現実にはしくじる人物たちを主人公としたのだ。

 ファスビンダーはなにより映画を愛する者であり、飽くなき好奇心で映画作りの喜びを重視した。絶望的な物語を語る場合でも、観客に映画を作る喜びを感じさせた。その喜びには観客の意識を覚醒させるべく様々な挑発を行うことも含まれている。『ベルリン・アレクサンダー広場』の場合、劇場ではなくテレビ映画という条件を大胆に逆手に取り、大多数の視聴者にテレビの慣例に反する作品を突きつけた。しかもそれは、映画作家としていわば自己否定とも取れるような暴挙である。すなわち当時のテレビ受信機ではほとんど細部が見えなくなってしまうほどの暗い画面を基調にして、『ベルリン・アレクサンダー広場』をテレビ放映させたのである。以下にファスビンダー自身の言葉を引用しよう。

実際に手や顔の輪郭しか見えないようなものだったはずだ。ドイツのテレビ視聴者はこういうものに慣れていなかった。彼らの馴染んでいた美学は、いわばテレビドラマの美学で、≪今日のニュース≫の延長で全てが明るくスピーディというものだ。だからこれは視聴者の慣れに完全に反している。先ずはじっと画面を見つめなくてはならない、絵画を見る時のように、レンブラントを見るように、輪郭からようやくレンブラントの意図するものが分かるまで見続けなくてはならないようなものだ。だが彼らにそんな忍耐力は全然ない。受信機のつまみを回して画面を明るくしようとかいろいろ試してみるだろうが、それではダメだ。(『アナーキー』182ページ)

 ファスビンダーは、テレビメディアにおいてその慣例を覆すという挑発を行ったわけだが、それと同時に、彼は劇場映画を観るような意識の高い観客向けの映画美学をテレビで実践したことを述べている。

例えばヒッチコックの映画で、観客は俳優の顔が分らず輪郭しか見えない事を受け入れて映画を理解しようとする。連中はテレビ映画だと思って見たので、僕が正しいと思う考え方、つまり基本的にはテレビのためでも劇場の場合と同じ美学で作るべきだ、ということを分らなかったんだ。(『アナーキー』182ページ)

 とはいえテレビの視聴条件を映画館での映写環境をそのまま比較することはできない。そのことをもちろんファスビンダーは心得ており、以下のように付け加えている。

重要なのは、テレビの視聴者にはテレビの美学を教え込まれているということだ。それはもちろん視聴者のせいではなくて、何度も繰り返し見せられている間に、彼らはそのことに慣れてしまうんだ。(中略)たった1シーンだけが極端に暗くなっている場面があるだけだ。それ以外は通常の明暗の対比になっていて、劇場映画をテレビ受信機で見る時のように画質が落ちるかもしれないが、それでも許容できる範囲にあるはずだ。」(『アナーキー』183頁)

 これはかなり大胆な発言である。おそらくファスビンダーはこのテレビ映画を、劇場公開することも視野に入れて製作したのではなかろうか。というのも企画初期の段階では、同じセットを用いてテレビシリーズと劇場公開版を並行して撮影するというアイデアがあったからである。とはいえあまりに無謀な企画だということで、結局劇場版を製作する話は立ち消えとなった。そこでファスビンダーにとってはテレビ版に彼の全てのアイデアを持ち込むことが重大事になったのだと推測される。
 こうしたファスビンダーの個人的な野心はテレビというメディアの本質的な理解において齟齬をきたしている。かつて彼は1971年に『8時間は1日にあらず』という連続テレビドラマを手掛けた経験があった。その時の彼のテレビに対する考えは以下の通りである。テレビの視聴者は劇場観客とは異なり意識が高くないため、興味を引かなければ最後まで見てくれない。そのため分かり易く作ることを心掛けるというのだ。かつてのポリシーを、自ら覆したのが『ベルリン・アレクサンダー広場』の演出方法である。しかも画面の暗さだけでなく、フランツという主人公を巡る愛憎関係も同様に、分かり易く咀嚼しやすいドラマとして構築されているとは言い難い。しかも13話の後に置かれたエピローグでは、現実と幻想が入り乱れた映像と音声の混沌状態となる。このような演出はテレビ放映の技術的限界を超えており、しかもどれだけ意識の高いテレビ視聴者を想定したとしても、それを再生する当時とテレビ受信機が、闇を強調した映像美学や音の過剰なコラージュを満足に再生したとは考えがたい。この映画がスクリーンに映写されたヴェネチア映画祭やニューヨーク近代美術館では絶賛の声が聞かれているとすれば、ドイツ国内のテレビ放映を巡る誹謗中傷は、ファスビンダーの意図したものかどうかはともかく、必然的に起こった面もあるといわざるを得ない。従って今回のデジタルリマスター版の作成により、家庭用テレビでも十全なクオリティで視聴できるようになったとすれば、当初のファスビンダーの放映意図は、21世紀になってようやく満足できる結果を得たのだと言えるだろう。
 皮肉なことに、このリマスター版に対してあまりにも画面が明るすぎるという声が出された。初放映時とは正反対の批判が行われたことになるが、これはむしろ、ファスビンダーのこの作品を映画美学の観点で捉える批評が優勢になったのではないかと考えられる。暗さの美学は劇場映画において自明の事柄である。リマスターによって見えすぎるというジレンマはファスビンダー作品だけでなく、過去の作品のデジタル化において必ず直面する問題である。映像に映されているあらゆる細部まで全て可視化することが、映画の美学にとって資するのかどうか。ただし一つ明らかな点は、ファスビンダーの演出が明らかに当時のテレビという枠を超えたものだったことである。暗い空間には人物やオブジェが巧妙に配置され、ロングショットの中に様々なアクションが映り込んでいる。またサントラは音楽や音響効果を多重化して過激なポリフォニーを生み出している。これらは一度の視聴で全て読み切れるものではなく、ファスビンダーは何度も繰り返し見られるべき普遍的な価値を持った作品を目指したことがわかる。

 この映画化で省略されたもの、それはアレクサンダー広場である。もちろん1920年代当時の広場は存在しないため、それを見せるには歴史的な映像資料を用いるかスタジオにセットで再現するしかない。この映画化ではバヴァーリア撮影所に建造されたワイマール時代の街路のセットが使用されているが、これはイングマール・ベルイマン監督がバヴァーリアで撮影した映画『蛇の卵』のために作られたセットの流用である。街路全体を再現した巨大なオープンセットだが、ファスビンダーはその全景を見晴らせるようなパノラマ撮影を一切取り入れなかった。この映画には、他のファスビンダー映画と同じく、室内場面が圧倒的に多い。大都市ベルリンの雰囲気は、屋外の雑踏を逃れて狭いアパートに閉じこもったり、あるいは酒場に入り浸る人々の姿によって表現されている。しかも原作では屋外で展開するはずの場面を地下通路に移すなど、壁に囲まれた閉塞感を感じさせるような演出が随所に施されている。
 こうした微細な変更にファスビンダーの脚色法の真髄がある。原作にある様々な言語要素は、言語のままで映画の中に取り入れられる。時代の雰囲気を可視化させるような映像への変換は徹底して避けられるのだ。もちろんセットや美術はそれぞれにふさわしい時代考証がなされているが、映像はデーブリーンの小説に展開するイメージをそのまま視覚化するのではなく、むしろそのテクストとの距離を可視化する。暗さが強調されるのもその一つだが、それ以外にもガラス、鏡、格子越しの撮影、明滅する光の中での場面、またカメラのダイナミックな移動と俳優のストップモーションなど、映像の人工性を強調する技巧が随所に取り入れられている。そうした演出で、ファスビンダーは主人公を囲い込む檻のような大都市ベルリンを象徴化する。その中に生きる主人公たちの人間関係へと描写を収斂させるのである。 そこでファスビンダーの分身とも言える主人公フランツ・ビーバーコップの人物像について、ファスビンダー自身が語った言葉を引用してみたい。

最初は至極単純だった。彼は愚かにもずっと自分の生きるこの世界とシステムの中で善を信じていた男だと、僕はいつも言っていた。でもそれほど単純ではない。(…)僕が魅力的だと思うのは、そうでないと分っているのに、おそらくそう見ればそうなるという願望から、人間は善良でありうると信じている人物だ。彼がそうやって世の中を渡ってゆけるのはとてもアナーキーだからだ。なぜなら彼は労働者として生きたのではなく、労働者世界の周辺で生きたに過ぎないからだ。この小説は通常の労働者世界の周縁部で出来上がったもので、だからこそ労働者世界について多くのことを語りうるのだと思う。もし失業している人々について語ったとしても、それは労働者についての何かを語ったことになる。(『アナーキー』184ページ)

 ファスビンダーの視点がビーバーコップを取り巻く環境へと広がることにより、小説の舞台となる時代とファスビンダーの生きる時代との接点が見出されてゆく。この点に過去の小説の脚色でありながら、そのままファスビンダーの主観によるオリジナルな作品となりうるもう一つの鍵がある。そこでファスビンダーがこの小説のどこにアクチュアリティを見出しているのかをいかに引用してみたい。放映時におけるドイツの視聴者の拒絶的な反応に対する彼の言葉である。

おそらくとても多くの人が不安を感じているのは、彼らがドイツの歴史というものにも敏感に反応したからだと思いたい。しかもそれは必要だし当然なことだ。なぜならドイツの歴史がこうしてまた抑圧されてしまえば、再び地下で何かがゴロゴロとうなり始めるからだ。だって第三帝国についてまだ全て整理されたわけではないからね。第三帝国は、僕の考えでは、歴史上の予想外の事故ではなく、ドイツの歴史において全く予見可能で論理的な展開だった。だから45年以降の民主主義は、教育や権威に関して第三帝国の時代に育まれた態度をとても多く活用している。(『アナーキー』184-5頁)

 ファスビンダーにおける戦後ドイツの過去との対峙は、『ベルリン・アレクサンダー広場』におけるドイツ社会の描写と、ビーバーコップをめぐる愛と裏切りの関係性の双方に多重に表現される。この映画はビーバーコップの政治的意識がいかに誤ったものであるかを告発することを主たる目的とはしていない。彼は「通常の労働者社会」の周辺で、人間の善性を求めて極めてアナーキーな振舞いを続けているが、最後に彼がナチに取込まれるかどうかわからぬまま映画は終わる。ただ映画の結末では「彼はサラリーマンになった」という字幕が登場し、彼が労働者社会の中に組み込まれたことだけを明らかにする。そして時代はナチ台頭と戦争への足音を次第に高く響かせるのである。こうした展開は微妙な変更を加えながら全て原作小説に書かれたものである。その意味においてファスビンダーの世界観はまさにデーブリーンのテクストの再現なのだ。
 だがフランツとラインホルトの関係に集約される不思議な愛の絆は、ファスビンダーのいわば深読みが導き出したものである。実はその絆の力こそが、暗澹たる現実世界の中で抵抗の力を宿している。フランツがアナーキーにも信じているのは、実は個人の愛の力なのだ。社会の網目に捉えられていない個人の感情こそが「純粋な愛」とファスビンダーが名付けたユートピアの可能性である。しかしフランツの人生に破壊的な打撃を与えるラインホルトとの間に結ばれた不思議な絆は、エピローグの最後ではフランツの口から過去形で表現され、社会のまっとうな一員となったフランツにとって、このアナーキーな愛の可能性は放棄されてしまう。それはまさに希望なき時代の始まりである。だがそれを描き出す監督の手つきは限りなく優しい。ラインホルトに翻弄されるフランツは決して愚かな道化ではなく、一方のラインホルトは小悪党だがやはり感情的な弱さを持った人間なのだ。彼らは美しくも汚れた映像イメージの世界つまり明るさと暗さの拮抗する映画美学の世界で生き続ける。ファスビンダーは『ベルリン・アレクサンダー広場』のテクストと彼自身の声とを二重化して、彼のもっとも個人的な愛と絶望を語った。それは一つの映画作品に込められ、しかも開かれたテクストとして受け手の解釈に委ねた。この複雑なファスビンダーの網目を現代において読み解くことが、後の世の私たちに与えられた課題となるわけだ。

引用文献
Rainer Werner Fassbinder, Filme befreien den Kopf. Michael Töteberg (Hrsg.) Frankfurt a. M. (Fischer) 1984. 本文中の略称『映画は頭を』
Rainer Werner Fassbinder, Die Anarchie der Phantasie. Michael Töteberg (Hrsg.) Frankfurt a. M. (Fischer) 1986. 本文中の略称『アナーキー』

冊子「映像ゼミナール2013」(上智大学ヨーロッパ研究所編集/上智大学発行)より 

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