オーソン・ウェルズ Orson Welles


1915年5月6日、アメリカ北部のウィスコンシン州ケノーシャに生まれる。生後18ヶ月でベビーベットのなかから医者に向かって「薬を飲みたがる気持ちは人と動物を区別するもっとも大きな特徴の一つだ」と喋ったと伝えられる。幼少より詩・絵画・演技、そしてピアノやマジックにいたるまで多彩な才能を示し、普通の子供が読み書きを習う年齢には、既にシェイクスピアを通暁していたという。27年の父の死後、シカゴのモーリス・バーンスタインという外科医のもとに預けられる。バーンスタインの名は後に「市民ケーン」のなかで、ケーンの新聞会社の支配人の名として登場する。
31年にウッドストックの私立学校を卒業後、大学には進まず、アイルランドへスケッチ旅行に出かけた。ダブリンでは、有名なゲイト座の演出家に、自分はニューヨークの俳優連合のスターであると偽り、加入を許されると「ユダヤ人ジュス」の敵役で絶賛を博す。34年、シカゴの社交界出身の女優ヴァージニア・ニコルソンと結婚。初のラジオ出演のほか、4分間の短篇「The Heart of Age」を共同監督し、妻とともに出演もしている。21歳の時、ニューヨークの舞台演出家としてデビュー。37年にはジョン・ハウズマンとともにマーキュリー・シアターを設立し、オール黒人キャストの「マクベス」、当時の全体主義的国家に内容を重ね現代的衣装で演出した「ジュリアス・シーザー」などでセンセーションを巻き起こし、演劇会の寵児となる。
38年にはラジオ・ドラマにも進出し、H・G・ウェルズ原作「宇宙戦争」で火星人侵略シーンを臨時ニュースが伝えるというかたちにしたため、聴取者たちがパニックに陥り、町に飛び出して大騒ぎになったというエピソードは余りにも有名。この事件がきっかけで、RKOに招かれ、恐らく一人の映画監督のデビューとしては他に類を見ない衝撃を与えたアカデミー賞作品「市民ケーン」(1941年)を発表する。RKOはこの新人監督に予算の範囲内での全ての製作自由を与えた。彼はこれを最大限に生かし、ケーンのモデルになっている新聞王ハーストの妨害にもかかわらず、全世界の映画人に、撮影技術・音響の点で影響を及ぼした作品を作り上げた。
しかし、当時この映画はそれほどヒットせず、それ以降は非常に限られた予算で映画づくりを強いられるようになる。加えて、第二作「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942年)は大幅にカットされたうえ結末も改変させられるし、南米に渡って撮った「イッツ・オール・トゥルー」は未完、「上海から来た女」(1947年)も「マクベス」(1948年)も最後で編集権を奪われてしまった。40年代後半からは「第三の男」(1949年)を含む他の監督の映画や舞台に出演して、自作の資金集めをしなければならなくなり、「オセロ」(1951年)「ミスター・アーカディン」(1955年)もそうした状況下で撮られる。その後は、ヨーロッパなどで舞台や「黒い罠」(1958年)「審判」(1962年)「オーソン・ウェルズのフェイク」(1975年)などの映画を撮り、活躍。75年には約30年ぶりに本格的にアメリカに戻り、アメリカ映画協会功労賞を受賞した。1985年、70歳で死去。


過去の上映作品

秘められた過去(ミスター・アーカディン)
 Mr. Arkadin(Confidential Report)
 1955